佐倉本情報 佐倉本は、小説、雑誌、同人誌などに佐倉が一文字でも出てくる冊子の総称です。 【図書の紹介にあたって】 図書を紹介するにあたっては、著者、題名、発行年、出版社を記入するほか、佐倉が出てくる部分を一部引用しています。これは、題名だけでは図書の内容がわからないため、利用者が図書を選ぶにあたっての目安としていただきたいと考えたからです。 引用にあたっては、掲載した文章の誤字、脱字もあろうかと思うので、利用者は原著を読み、原著から引用をしていただきたいと考えています。 また、引用部分は文庫で判断したため、著者の納得いただける引用部分ではないかも知れませんが、なにとぞ趣旨をご理解いただきたく、お願いいたします。 【20010年1月1日〜 】 12月27日 逆ハンドルさんから、相談あり。 佐倉にゆかりのある人と思うのですが、栗原敬、山本湖城、白鳥健という人物を探しているそうです。 栗原敬は『春蚕飼育の師並桑育注意要録』(国開園、1923)、『絶対飽食条桑育蚕法の活導』(国開園、1920)などを執筆しています。 山本湖城は『昼夜、山本梅太郎』(1913)を執筆しています。 白鳥健は『日蓮の国へ』(イリス社 1920)を執筆しています。 私にも、まったくわかりません。どなかた、情報があればお寄せください。 12月24日 佐倉本情報 徳原真人と仲間たち『コンテナガーデニング 和と洋の融合』(2010年4月 実業之日本社) 和の庭園や、洋の庭園でそれぞれ趣のある器に花を活けられています。本書には旧堀田邸(25p、26p)、 佐倉城址公園(29p)、川村記念美術館(52p〜55p)を使って花が活けられています。 12月20日 佐倉城に関する図書です 西野博道『関東の城址を歩く』(2001年10月 さきたま出版会) P171-174に佐倉城祉が取り上げられています。 11月6日 志茂田景樹『外道・宮本武蔵3 激烈なる魂篇』(1993年4月 有楽出版社)を購入しました。 佐倉城落城に猿飛佐助と霧隠才蔵が出てくるんですから、もうこれはコレクションです。 11月4日 グーグルのブック検索は、巨大な電子図書館です。この電子図書館では、世界有数な図書館の蔵書を電子化しようとしています。 また、書店で販売されている図書が紹介されていて、その多くの図書は本文を読むことができます。これらの図書は「キーワード検索」することができて、 たとえば「佐倉」と入力すると、本文に佐倉と書かれた図書を検索してくれます。 このブック検索を使うと、これまで紹介されていなかった「佐倉が出てくる本」に、出会うことができました。それらの中から購入したものを紹介していきます。 遠藤順子『ビルマ独立に命をかけた男たち』(2003年8月 PHP研究所) 「先に銚子駅に着いた時、プラットフォームの端に、佐倉から乗り込んで来て退散したはずの二人の憲兵の姿がありました。」(43P) 木村四郎『我が心の足寄、そして中国戦線へ・・・』(2003年1月 文芸社) 「この行軍で千葉県、佐倉連隊の同年兵が落伍した。」(185P) 成川英子『しろつめ草』(2003年1月 文芸社) 「おめえら、そんなに急がなくてもいいよ。・・・佐倉へ入隊したらね、どこまで連れていかれても、きっと生きて帰ってこねけら駄目だよ。 みんなが待ってるだかんね」(57P) 「滝の坂とは、東金から連隊のある佐倉に通じる坂道で、久子の勤める学校の東の窓から、田んぼの向こう側に手に取るように見えるのだった。」(146P) 清水章光『華北の散兵』((2004年6月 文芸社) 「昭和15年12月23日午前2時、我々は佐倉駅を出発、芝浦へと向かった。」(13P) 斎藤貢『追想記』(2004年6月 文芸社) 「古くより名を馳せた”佐倉歩兵第五十七連隊”の移動の後に入ったという”東部第六十四部隊”である。」(9P) これらの図書は、ブック検索がなければ出会うことがなかったでしょう。 11月3日 佐倉本情報 山崎光夫『二つの星 横井玉子と佐藤志津』(2010年10月 1,800円 講談社) 女子美術大学を創設した横井玉子と、学校を引き継いだ佐藤志津の物語です。 佐倉の風景が描かれ、登場人物は佐藤尚中、佐藤進、浅井忠、横井小南などです。 佐倉の人物が描かれた小説として、お勧めします。感動します。 11月2日 節の介さんから佐倉本情報あり 小倉光夫『房総風雅史 古代・中世編』(思文閣出版 2010年8月) 旧石器時代から鎌倉・室町時代について整理されていますが、 佐倉に関しては、印旛沼、鹿島川、神門についての ことが少し出てきます。 11月1日 節の介さんから佐倉本情報あり 志茂田景樹『外道・宮本武蔵3 激烈なる魂篇』(1993年4月 有楽出版社) 「宮本武蔵が関ヶ原で西軍に属して戦った後、石田光成に仕官して重臣になり、 第二次関ヶ原で勝利し、小田原城を落とし、江戸城を包囲した結果、家康・秀忠父子は 切腹に至った。下総の松平忠輝(家康六男)は、豊臣家に謀反の意思を表した」という前篇までの ストーリから続くもので、 第一章に「佐倉城落城」が展開されています。 1613年5月に、佐倉城主の松平忠輝が猪鼻城に集結した後、佐倉城の留守を預かる皆川則照に対して、 宮本武蔵は猿飛佐助と霧隠才蔵の働きで落城させたという内容です。 ちょっと、私が認識している佐倉城の歴史とは異なるストーリーで、 とまどいます。 〈返信〉 ありがとうございます。小説の世界ですから、このようなストーリーもOKですね。 10月30日 節の介さんから佐倉本情報あり 『さくらガイド 佐倉城址公園に咲く50品種』(2010年1月 鹿島川・高崎川の堤に桜を植える会) 城址公園の50品種の桜が写真付きで紹介されています。 本数の少ない品種については、紹介ページにおいて、 公園内のどこに植えられているかを示した地図も添えられています。 10月29日 Sさんから佐倉本情報あり 雑誌『茶崖』第140号(2010年10月 順天堂大学医学部同窓会誌) 佐倉の順天堂に学んだ伊古田純道(秩父市)は、岡部均平と嘉永5年(1852)に帝王切開術を日本で初めて行った、とあります(34P)。 10月26日 節の介さんから、明治になってからのパスポート第1号について[続編] 佐藤進の旅券のことに関する2010年9月28日の記事(上段の「佐倉本」に収納)の中で、 『明治事物起源』(石井研堂著 増訂 春陽堂 1926)が 引用出典であるとのことでしたが、 『増訂 明治事物起源』石井研堂著 春陽堂 昭和11年発行で、 次の記述を確認しました。 P88 第一号海外旅行免状 海外旅行免状の第一号を得しもの、二人あり。一は山田【いね】養、 一は佐藤進なり。【いね】は、のぎ偏(禾)の右側に「曳」を書いて、 右肩に点が1つ付く漢字です。 山田氏は久留米の人にして、幕末の戦争にも加はり、勝安房の海軍練習所にも 入り、函館戦争の時は、千歳艦長として北海の浪を蹴破せし人なるが、乱鎮定後米国 マサチユーセットのウエスタル学校に入らんとて、旅行免状の下付を乞えり。其時与え られたるは即ち第一号付の免状なりしが、氏は之を懐にして渡米し、 卒業後代言人を業とし傍ら貿易業を営み居りしが、滞在十八年、帰国後横浜に開店して 商業に従い、明治四十年春歿せり。 氏の免状は、明治元年兵庫県の裁判所にて渡せしものにて、 縦五寸五分横一尺五分の奉書紙へ、肉筆にて書けり。 当時、世は未だ渾沌、海外旅行は、何れの役所にて許可すべきやも定まらざりしなり。 (明治元年辰年十一月日の免状の文面:省略) 佐藤氏の洋行は、明治二年六月なりしが、同氏の話に據れば、これより先き、 医学修業の為めに洋行の許可を、佐倉藩留守居の手を経て、政府に出願せり。 当時は、その事務を掌る長官を外国官知官事といひ、伊達宗城氏即ちそれなりし。 洋行は奇特のことなれども、明治政府となつてより、未だ一名も洋行者無く、 海外旅行方法出来居らざれば、少しく猶予してとの事なりし。三ヶ月程待ちて、 漸く下付されたるは、第一号の免状なりし云々と。 山田氏は兵庫県、佐藤氏は中央政府より免状を得たるなれば、双方第一号なりしも 有り得べき事なり。 なお、『増補改訂 明治事物起源 上巻』石井研堂著 春陽堂 昭和19年発行の P312でも、「海外旅行免状第一号者二人」という見出しで、ほぼ同内容の記述があります。 10月18日 Mさんから佐倉本情報あり おはようございます。はじめてメールをいたします。 朝日新聞出版の『マンガ日本史』第2シリーズで雷電為右衛門と津田梅子が取り上げられています。 面白い場面を切り取ってマンガにするというものです。 それから週刊ものですが、デアゴスティーニ『週刊 江戸』36号(2010年9月)に佐倉藩が出ています。 サイトの佐倉本・雑誌には見当たらなかったのでお伝えします。 〈返信〉 ありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします。 10月15日 えりっぷさんから佐倉本情報あり 佐藤志津が描かれた小説「二つの星」の出版情報がネットの本屋さんに載っていました。 「二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道」山崎光夫著 講談社刊 10/20出版予定です。 〈返信〉 ありがとうございました。出版されたら買い求めます。 10月14日 Wさんから佐倉本情報あり お久しぶりです。Wです。 先日 福島の白河の関まで行ってきました。白河市役所のそばに司 馬遼太郎の「街道をゆく」に出てきた小さな教会があります。白 河ハリストス正教会といいます。 この教会で、イコン(正教会で用いられる画のことで、聖像とも呼ばれます)や教会の由 来について詳しく話してくださいました。そこには山下りんさ んのイコンが数点あり、感動しました。 そこで『魂のイコン山下りん』高橋文彦著、原書房を手に入れ て読んだところ、浅井忠さんが登場してきました。 18頁「美術学校には、画学科と彫刻科の2科があり、あわせて 約60人が在学していた。そのなかには、のちに明治美術会の 創立に参画し洋画画壇の発展に尽くす浅井忠、肖像画家として 活躍する五姓田義松といった顔もあった。」(この美術学校と は工部美術学校のことです。) 26頁「明治十一年七月、美術学校大試験が行われた。小山正 太郎が一番に輝き、りんと親しい松岡寿は三番浅井忠は五番に つけた。りんは二十六人中の十番目だったが、女子では最上位 であった。」 28頁「浅井忠は、りんにも行動をともにするよう誘った。「 どうせもう、美術学校には希望がない。どう、僕たちといっし ょに新しく結成する美術団体にはいらないか」 りんは当惑した。いったんは退学の方向へ傾いたが、足元は地 中に埋まっているように、踏み出すことはできなかった。 「そうしたいけど、今はできない」 「そう、それは残念だ」 りんは、忠に恋心とも友情ともつかない感情を抱いていた。精 十郎は憧れの対象であり、一定の距離をとることで安心してい られるところがあったが、一歳年上の忠には、忌憚なく何でも 相談できるきやすさがあった。 「忠さんは、フォンタネージ先生のお眼鏡にかなった愛弟子の ような人だから、あなただけでも、先生の画風を大切に受けつ いでちょうだい。先生は帰国する前、あなたの油絵を二点もも ちかえったでしょ。」 「わかった。そうするよ。りんさんは、これからどんな絵を描 いていくのかわからないけど、君ならきっと大家として成功す るよ。」 確信を持った言い方だった。」 山下りんのイコンの多くが紛失したり関東大震災で焼けてし まったのはとても残念ですが、ニコライ2世に献上したイコン は今もエルミタージュ美術館に保管されているそうです。 では、ご報告まで 〈返信〉 ご無沙汰しております。旅行中に浅井忠のことが書かれた本に出会うとはラッキーですね。 ありがとうございました。 10月13日 節の介さんから佐倉本情報あり 島尾敏雄『島尾敏雄日記 『死の棘』までの日々』(2010年8月 新潮社) 昭和20年から26年までの日記であり、佐倉での生活よりも前の期間の日常が書きとめられています。 〈返信〉 ありがとうございました。これを読むと、佐倉に来るまでの流れが理解できます。 9月30日 南野陽子『南野陽子 Beauty Book』(2010年6月 主婦と生活社)を買い求めました。 表紙が佐倉在住の画家高橋真琴さんの絵です。この絵は南野陽子さんのイメージで書かれたお姫様だそうです。 9月28日 節の介さんからメールあり 佐藤進が明治政府発行のパスポート発行第1号とありますが、曲芸師であったとも書かれています。 そこで、どちらが正しいか千葉県立中央図書館に問い合わせたところの結果をお知らせします。 図書館への問い合わせ内容 パスポートの発給第1号は、「佐藤進」と「曲芸師」のどちらが正しいのかを調べています。 『パスポートとビザの知識』(有斐閣選書・新版・1994年7月、初版・1987年3月)には、このことに関し どのように記述されているのでしょうか。また、両者の違いを解説した図書がありましたら、教えてください。 <回答> (1) 『パスポートとビザの知識 新版(有斐閣選書)』(春田哲吉著 有斐閣 1994)(中央、東部)の記述は次の通りです。 「第1部 パスポート(旅券)−第3章 わが国の旅券の歴史− 1 幕末以前の旅行免状」という節の中で、「最初の旅券」の見出しの文章中に、 幕末に初めてパスポートが発行された者の姓名、住所等のリストが外務省の外交資料館に保存されており、そのファイル名は「旧幕府之節 免状申受之者 姓名調・慶応二丙寅中 海外行 人名表」となっており、外国奉行から慶応2(1866)年10月19日付で57枚の渡航免状(パスポート)が発行されたこと、 「その免状の第1号から第27号まではアメリカ人に雇われてアメリカやヨーロッパに渡航した見世物芸人たちのものであり、その第1号は江戸、神田 相生町源助店の手品師、隅田川浪五郎あてに渡航先が亜国(アメリカ)として発行されたものである」との記述があります。(p66-68) なお、次の記載があります。『続通信全覧』(外務省外交資料館蔵)に載っている免状の控え用の写しには発行年月日が一〇月一九日ではなく一〇月一七日と記載されており、 また、「裏に蘭文字有之」と注記が付されている。これは、「一〇月一九日、『裏に英文字有之』」の書き間違いかと思われる。 また、同じ第3章で、「2 戦前までの旅券下付制度」という節、「明治初期の旅券制度」の見出しの文章中、「明治新政府になって最初に発給された旅券は、明治元年(1868)年11月3日付 で兵庫裁判所(司法機関ではなく、廃藩置県以前に開港場に設置された神戸地方の行政機関)から久留米藩士山田【いね】養(いねやす)(別名正之助)という人に 下付された兵庫の第1号であるという。」との記述があります。 「明治初期の旅券制度」の見出し中、これに続けて、明治2年1月に新政府がそれまでの印鑑(旅券)を改造(様式改定) して新たな印章(旅券)を引替えに渡すこととした旨の説明があり、 「そして、この布告に基づいて印旛県(佐倉藩)より願い出のあった堀田相模守医(藩医)の佐藤尚中の養子で佐藤進という人に明治2年6月に神奈川の 第1号が発給された。」との記述があります。(p73-74) ※文字化け防止のため漢字を置きかえて記載しています。【いね】は、のぎ偏(禾)の右側に「曳」を書いて、右肩に点が1つ付く漢字です。 なお、山田【いね】養(いねやす)の記載の引用出典は、『明治事物起源』(石井研堂著 増訂 春陽堂 1926)p88となっています。 中央図書館所蔵の『明治文化全集 別巻 明治事物起源』(明治文化研究会編 日本評論社 1969)のp332-333に「海外旅行免状第一号二人」の項目において 山田【いね】養(いねやす)と佐藤進が紹介されています。 (2) 『幕末・明治のホテルと旅券』(大鹿武著 築地書館 1987)(中央、東部)「3 幕末における海外渡航と旅券の誕生」という章 「免許状第一号」の見出しの文章中、「『慶応丙寅・丁卯海外行人名表』に神奈川第一号と記されているのは横浜太田町房吉で、イギリス人トーマスの小使いとして、渡航期限一ヶ月で清国へ往復、 慶応2年6月帰朝したことになっている。」との記述(p163)と、慶応2年9月決定した川路太郎・中村敬輔ら14名のイギリス留学生について 「実質的には免許状の第一号は彼らであろうと思われる」との記述があります(p164)。 また、p165-171に「曲芸師一座の渡航」という見出しの文章があり、「これが『海外行人名表』に記載された外国奉行発行の免許状第1号から27号 までの曲芸一座である。」との記述があります。 なお、同書の「4 明治初期における海外渡航と旅券制度の確立」という章に明治 初期の状況が書かれていますが、佐藤進氏についての記述は見当たりませんでした。 (3) 『幕末明治海外渡航者総覧 第1巻〜第3巻』(手塚晃編集 国立教育会館編集 柏書房 1992) (中央、西部、東部 いずれも参考図書)によると、 ・「隅田川浪五郎」は人物情報篇に掲載なし、 ・「渡航時期別索引」の1866(慶応2)年にもなし。 ・「山田【いね】養・山田正之助」は2巻p447に掲載あり、「顕著な業績」という項目に「海外渡航券第一号」と書かれています。 ・「佐藤進」は1巻p425に掲載されていますが、渡航券に関する記述はありません。 〈返信〉 ありがとうございました。 9月24日 佐賀のMさんからの佐倉情報、9月7日の続き 『久保松太郎日記』(マツノ書店)もある佐賀人探しで読みましたが、思いがけない佐倉人の名前が出てきました。安政三年九月二十三日の条に、 「暮前堀田藩立見直八来ル。」の一文がありました。記事は此れだけであり、出会いの場所は江戸です。立見直八については以前メールの話柄にしましたが、 倉田施報と久保松太郎の出会いと話の内容は何だったのでしょうか。 以下、情報のみ。 大谷利彦著『長崎南蛮余情 永見徳太郎の生涯』(長崎文献社)に、永見徳太郎の娘が佐倉に居住しているとあとがきにありました。 伊藤金次郎著『わしが国さ』(刀江書院・大正15年刊)は人国記の北日本編です。そこに「大山高岳もなく、波瀾怒涛もないおだやかな下総人種」とありました。 稲垣真美の『もうひとつの反戦譜 旧制一高における非戦の歌・落書』は「日本平和論大系十五巻」です。本書に佐倉連隊を芋連隊と書いた箇所が出てきました。 これは単なる悪口でしょうか。それとも別の意味合いがあるのでしょうか。 大橋周治著『幕末明治製鉄論』(アグネ)の中に、栃木県佐野における反射炉建設に関して佐倉の西村勝三の名前が出ていました。 幕末期には正田利右衛門の番頭を勤めていた関係からであるようです。 前坊洋著『模擬と新製 アカルチュレーションの明治日本』(慶応義塾大学出版会)は、明治期のアカルチュレーション(文化変容)を洋楽や洋食の話題を渉猟して読者に提供した本でしたが、 依田学海の二つの日記が大活躍で援用されていました。学者が目に付ける程の豊富な記事内容であると云う証左でしょう。 川西政明著『新・日本文壇史 一巻 漱石の死』(岩波書店)に、松下俊子の母親は佐倉の香宗我部隼人の娘だとありました。 「続日本史籍協会叢書」の『匏庵遺稿 二』は栗本鋤雲の遺稿集です。「農業博覧会の私評」に小野寳、が白猿を庭に繋いで飼っており、 この白猿は下総の産で元木道平が捕獲したものだとありました。小野寳、は小野蘭山の曾孫です。 細川家編纂所編集『改訂肥後藩国事史料 巻二』に手塚律蔵撰文の木村鉄太墓誌がありました。その一節に「文久二年壬戌二月五日 以病没于余家塾 年三十有四」とありました。 木村鉄太は万延元年遣米使節の一員で、『航米記』があります。 この手塚律蔵の子孫に坪内祐三がいます。WEBの「神保町系オタオタ日記」の今年二月と三月の記述に家系情報がありました。尚、坪内祐三の母方には井上通泰がいます。 〈返信〉 一冊、一冊を探すだけでも大変なことです。ありがとうございました。 9月23日 えりっぷさんから佐倉本情報あり 先日偶然見つけました。表紙が高橋真琴さんの絵の本です。「南野陽子BeautyBook」主婦と生活社2010年6月刊です。 見返しに表紙の絵は南野陽子さんの自宅に飾られている絵で、本人の憧れの画家、高橋真琴さんにお願いして描いてもらった貴重な作品とありました。 高橋真琴さんは佐倉市在住ということもかかれています。すごいインパクトのある表紙です。 〈返信〉 さっそく購入いたします。 9月7日 佐賀のMさんより佐倉情報のメールあり。Mさんの佐倉渉猟は桁外れてすごいものがあります。今日は、その一部を紹介します。 本日は台風接近で漸く猛暑日から開放されました。それでも蒸し暑さに変わりはありません。備忘録と日録から佐倉関連情報を拾ってきました。 最初は小永井小舟情報です。 石川忠久編『三島中洲詩全釈』(二松学舎) を閲読していたら、この明治時代の漢学者である三島中洲は山田方谷の弟子で、 松林飯山や野口寧齋の父の野口常陽とも友達であると書いていました。友人の名には小永井小舟や依田学海の名もありました。 『三島中洲詩全釈 第一巻』に九州歴訪の記録があり、長崎に到着した彼は早速小永井五八郎を訪ねていました。文久二年十一月二十日の条に、 「五八郎以幕府徒目付祇役于此、余旧友也」とありました。文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸 下』(中公文庫)では、 小永井五八郎は帰朝後幕府徒目付となり大阪調役等を命じられたと書かれていますが、長崎奉行所にも徒目付としての勤務していたのでしょうか。 手持ちのコピーに、『崎陽 第2号』(藤木博英社刊)収録の本馬晴子氏の「長崎奉行所組織の基礎的考察」がありましたが、残念ながら文久年間の記録はありませんでした。 これは確認を取りたい情報ですので、現在追跡中です。 『海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校』(秋元書房)を入手しましたので中身点検をしていたら、敗戦直後の江田島海軍兵学校の教育参考館の荒廃ぶりが書かれていました。 宮中関係の御下賜品は焼却し、出品元が判明している陳列品は戻して、各地の神社に奉納して残りは地下室に格納したという。 そこに昭和二十年九月十七日の豪雨で地下室に泥土が流れ込んだと言う。以前小永井小舟の遣米使節の記録がここに収蔵有りという情報がありましたので探ったことがありましたが、 これでは収蔵図書紛失の可能性はいくらでもあったようです。 『子母澤寛全集十三巻』に、子供である小笠原長生の談話を交えて語った小笠原長行の伝記である『花と奔流』が収録されています。 当然佐倉在の将門郷と藤倉玄周の話も登場します。 〈返信〉 いつもながら、圧倒される情報量です。残りは後日、紹介します。 9月6日 Mさんから、佐倉本情報のメールあり。 こんにちは、Mです。佐伯泰英『冬日淡々 酔いどれ小藤次留書』(2010年8月 600円 幻冬舎)に、佐倉が出てきます。 職場で話したら、満開佐倉文庫に連絡してみたらよいと言われました。すでにご承知かと思いますが、連絡まで。 〈返信〉 はじめまして。本書はすでに承知していました。買い求めてもあります。しかし、積読でした。ありがとうございます。積読状態の本、まだ数冊あります。 9月5日 Kさんよりメールあり。 こんにちは、はじめてメールをいたします。 私は猫に興味をもっています。江戸時代の堀田家の猫に関する質問です。 『巷街贅説』巻之四「渋谷狐釣」に、堀田家の渋谷の下屋敷で狐狩りを行なったときに、一匹の大猫を捕獲したと云う話が載っています。 もしも館主様に、何か御存知よりのことがございましたら、何とぞ御教示下さいませ。 〈返信〉 はじめまして。館主の亀田雄岳と申します。 さて、本書を見たことがありませんので、猫の話は初めて知りました。ありがとうございます。 渋谷の下屋敷は、現在、日赤病院と聖心女子大学の敷地となっています。日赤病院の脇には「堀田坂」という坂も残っています。 なお、Kさんからは、もう一つ佐倉藩に関する猫の問い合わせをいただいたが、こちらは出典が不明とのことで、今回は掲載を見合わせました。 8月30日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 『種子に生きる 坂田武雄追想録』には、中村忠正氏の回想の中に「第一銀行明石頭取の斡旋もあったかと思いますが現会長の正之さんが堀田旧侯爵家から婿入りされ、 その後興銀から坂田種苗へ入られたことなどを知りました」(250P) という一文があることを教えていただきました。 2010年8月28日付けの『千葉日報』県南版には、 「おもてなしの花植栽 佐倉駅前などにサンパチェンス」 という見出しで、 ゆめ半島千葉国体の期間中、市内訪問者を 花で迎えようと、佐倉市は種苗会社「サカタのタネ」から 寄贈を受けたサンパチェンスをJR佐倉駅北口駅前広場と佐倉ふるさと広場に 植栽したことが報じられています。 〈返信〉 坂田さんとは、神奈川県にある、あの有名な「サカタのタネ」ですね。 8月24日 佐倉本情報 長嶋茂雄『野球へのラブレター』(2010年8月 800円 文藝春秋) 『月刊ジャイアンツ』(2006年9月号〜2010年7月号)の「野球の散歩道」に連載されていた野球雑話をまとめたもの。 長嶋さんが色紙に書いていた言葉は、選手時代は「快打洗心」、監督になって「洗心」、第二期の監督になって「野球というスポーツは人生そのものだ」になったそうです。 8月23日 節の介さんから佐倉本情報あり 峯島正行『評伝・SFの先駆者 今日泊亜蘭 −"韜晦して現さず"の生涯−』(2001年 青蛙房) 小説家の今日泊亜蘭の祖父であり、画家の水島爾保布の父である水島慎次郎(鳶魚齊)は佐倉藩の郡奉行の二男だったそうです。 「彼は、そこで水島爾保布の長男として、明治四十三年に生まれた。本名は 水島行衛である。幼名、太郎と呼ばれた。これは祖父の命名によった。(略) 父水島爾保布は、美術学校出身の日本画家であったが、後に漫画、漫文も書き、 小説、エッセイ、評論にも筆をとり、何れも一家を成したという。今日でいう マルチ人間、多才な人物であった。 水島家は旧幕時代は淀藩の江戸留守居役を代々勤める武家であった。」(P52) 「(略)曽祖父に子がなかったので、祖父は夫婦養子に入った人であった。祖父は、 下総、佐倉藩の郡奉行出野家の二男で、慎次郎といった。祖母は桑名藩田中家の出であった。 この祖父は、甚だ学問好きで、養子に入るとき、自分の好きなように学問をさせてくれると いうことを条件にしたという。幕末から明治になっても、留守居役時代から蓄積された 富が残っていたから、学問に身をゆだねることができた。鳶魚齊と号し、『文海字典』、 「難訓字典」等字典類を編纂した。後、海軍省の嘱託として出任、文書家の仕事をした。 日露戦争の英雄、広瀬中佐の顕彰譜の碑文作成に参加したこともある。」(P53) 8月16日 Tさんから、佐伯泰英氏の『冬日淡々』に、佐倉藩主堀田正愛が出てくるという情報をいただきました。さっそく購入します。 8月12日 先日、Iさんから佐倉本情報をいただく。 遠藤周作『わたしが・棄てた・女』(1999年5月 講談社) 本日、文庫を購入。「長島繁男(ながしましげお)」(7P) 「友人、長島繁男は名前だけでは当今の有名な野球選手を連想させるけれども、 あのように逞しく、タフで、イカす青年を想像されては困る。」(8P) 「千葉県 桜町にて広告配り及び軽労働、日当賃金・二百円 交通費別」(12P) 長島繁男、桜町は、長嶋茂雄さん、佐倉市を意識した設定と考えます。 これは、井上ひさし氏が『馬喰八十八伝』で、桜の御殿様、長嶋茂兵衛と称したのと同じ表現方法であり、これも佐倉本と考えます。 7月28日 佐倉本情報 笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』(2006年4月 河出書房新社) 「ほんの何ヵ月か前まで、私は千葉に住んでいたのだ。それも船橋より東に。 そこでは八時半には多くの灯が消え、シャッターが下りる。夜は住宅街といえども山の気配がたちまち 侵入してくる。北総の台地である。多くの庭には野ウサギが現れ、農家建築も混じる豪邸街では、巨大に育つ 純血種の犬が無造作に飼われ、公園を目前にした私の家のベランダには、野鳥の森から時にはアオバズクまでやって来るのに。」(33P) 「千葉郊外でありながら、辛うじて車なしで生活できるだけの便利さを備えた街。」(60P) 7月27日 佐倉本情報 笙野頼子『萌神分魂譜』(2008年1月 集英社) 「二00七年五月十三日、生まれてもう五十一年と二カ月以上経ってしまった私のひとり暮らしの住まい、千葉の片隅の既に築七年に入る 建売一軒家の、台所の床から、―。」(40P) 「そこへは、下りられないけれど沼の見える、崖沿いの道路のガードレールぎりぎりに歩いて行くのだ。」(151P) 「なる程、今でも掘ると沼際には貝塚、山中には貝の化石がある。」(170P) 7月24日 昨日の本について。 勝新太郎の映画「兵隊やくざ」を観てから、映画の原作となった『貴三郎一代記』を書いた有馬頼義氏に興味を持っていた。 「兵隊やくざ」を観ていると、どうも佐倉の歩兵第57連隊を想起してしまうからだ。 勝新太郎が配属となった部隊が軍旗を先頭に孫呉の駐屯地に到着する場面がある。 軍旗はぼろぼろとなっており、旗の周りにある総だけとなっていた。実は、この軍旗の状態が57連隊のものの状態と似ていたからだ。 もちろん、陸軍の軍旗は補修しないから、ほかの連隊もそうであっただろう。そうではあるが、映画のイメージを57連隊に重ね合わせてしまっていた。 『遺書配達人』の解説に真鍋元之氏が「有馬頼義は自筆の年譜をのこしていて、その1940(昭和15)年の項は、つぎのようになっている。 『二二歳。一月五日麻布東部二部隊に入隊。正式には歩兵第一連隊という。麻布は留守隊で、本隊は満州国黒河省孫呉にあり、五日目で、渡満した。 十日間汽車にゆられて孫呉に到着する。ソ連国境黒竜江に面した山の陣地にはいる』とある。 孫呉における57連隊は、1連隊より平地(湿地帯)に駐屯していたので「山の陣地」には入らなかったが、近接していた。有馬氏は第1連隊の除隊者交代要員として孫呉に送られたのである。 有馬氏が1連隊にいたのだから、「兵隊やくざ」に親しみを覚える。もう少し何かがあれば佐倉にゆかりのある映画と認定したいところである。 「遺書配達人」を読むと、第一師団が列車で南方に転進させられる様子が描かれていた。第一師団は上海に到着した後、レイテに向かうこととなっていた。 この場面を描いた小説は見当たらないので、ご覧ください。 7月23日 佐倉本情報 有馬頼義「遺書配達人」『遺書配達人』所収 兵隊小説伝記選6(1984年7月 光人社) 「昭和十九年八月二十日、北満州の孫呉に駐屯していた第四軍隷下の第一師団部隊に、動員令が下った。一万三千の兵力をもって、九月末日までに、 上海に集結せよ、というだけで、行く先は、そのとき明示されていない。第一師団の主力は、東京の歩兵第一連隊、佐倉の第五十七連隊、甲府の 第四十九連隊と、それに付属する特科隊、し重隊(「し」がパソコンで変換できず)であったが、この出動は、八月二十三日に予定され、第一連隊の兵員は、 連隊長以下、二千四百名であった。」(7P) 7月19日 Sさんから佐倉本情報あり 平岩弓枝「明石橋の殺人」『新・御宿かわせみ 花世の立春』(2010年1月 文藝春秋) 「どしゃ降りの最中に到着したお客だと千春が思い出している中に、正吉が宿帳を開いた。 武家風の固い書体で、印旛県佐倉 大泉吉太郎 ふみ と書いている。『印旛県とありますが、たしか千葉県と変っている筈ですよ』 正吉が机の上の帳面を開いた。『間違いありません。佐倉は佐倉県から印旛県に変って、明治六年の六月から千葉県となっています』(9P) 「止むなく、正吉が勘定書を作り、嘉助にみせてから治平へ差し出すと、『全く、厄介者の分際で、男に狂って大枚の金は持ち出す、 おまけに金だけ取られて男には捨てられる。どの面下げて佐倉へ帰りなさる気か』」(13P) 7月18日 Nさんから佐倉本情報あり 吉村昭『海の史劇』(2001年2月 新潮文庫) 本書は、日露戦争、特に日本海海戦を描いたものですが、この海戦によって多くのロシア人が捕虜になります。 そして、捕虜収容所の一つが「佐倉」であったと記されています(489P)。このように一文字でもいいんですよね。 <返信> 日本各地に設けられた捕虜収容所が列記される中で、一文字でも佐倉とあればOKです。 7月16日 Sさんから佐倉本情報あり 佐伯泰英『独り祝言 鎌倉河岸捕物控<十三の巻>』(2008年11月 角川書店) 「江戸城本丸と西ノ丸の東に接する和田倉門堀、馬場先堀、日比谷堀に囲まれた一角は、陸奥泉藩本多家、美濃高富藩、越後長岡藩、下総佐倉藩、 越後村上藩、武蔵忍藩、越前掬山(福井)藩、陸奥会津藩と老中、若年寄を務める譜代、親藩大名八家と、直参旗本御馬預諏訪部家の一家の、九家しかない。 千代田城の最後の砦である。」(127P) 7月15日 連合艦隊の空母「瑞鶴」の最後の艦長が貝塚武男という人物で、旧制佐倉中学卒業であると以前知ったのですが、そのままとなっていました。 さっそく、瑞鶴の出てくる本を探し始めました。 7月14日 Eさんから佐倉本情報あり 佐伯泰英『風雲 交代寄合伊那衆異聞』に、堀田正睦が出てくるとの情報をいただきました。数冊続きの本で、2巻から、よく出てくるとのことです。 さっそく、取り寄せてみます。 7月13日 Yさんから佐倉本情報あり 乙川優三郎「面影」『闇の華』所収(2009年4月 文藝春秋) 「江戸の留守居役へ佐藤尚中の書状を届けて一泊し、友人の立見と上屋敷を出たのは年の瀬の昼前であった。」(134P) 「息子が印旛沼で鯉のような鮒を釣ったことであった。」(138P) 「五十路を前にした主君の堀田正睦も老中首座として多忙を極めていた。」(140P) 「家臣で蕃書調所教授手伝の木村軍太郎が調印の準備に尽力していたことを知っていたから、ついに主従の苦労が結実したと思った。」(140P) 「それまで井伊の考え方に近かった彼は斉昭の思想を信奉する水戸家中に疎まれていたから、佐倉藩主としても過激な尊攘派の動きを警戒していた。」(142P) 「水戸佐倉道と呼ばれる往還がある。」(143P) 7月6日 節の介さんから佐倉本情報あり。 『江戸大名廃絶物語』(2009年8月 新人物往来社編・発行) 歴史から消えた53家が取り上げられており、 第5章「政争の敗者たち」で、P133から「松平乗邑〈下総佐倉藩〉吉宗思いの画策が 裏目(執筆者:典厩五郎)」が取り上げられ、延享2年10月に老中を免職、蟄居となった経緯等が 説明されています。 また、第6章「領地返上」で、P166から「堀田正信〈下総佐倉藩〉泰平の世を怒る 武辺狂(執筆者:中村整史朗)」が取り上げられ、万治3年11月に領地が収公された経緯等が 説明されています。 なお、佐倉藩主の期間ではないですが、第1章「廃絶御三家」で、P18から 「松平忠輝〈越後高田藩〉将軍が恐れた忠輝」が取り上げられ、元和2年に領国が 没収された経緯等が説明されています。 <返信> ありがとうございました。 6月12日 Wさんより、佐倉本情報あり はじめまして。 父が最後に読んだ本が、『都市の医師ー浜野弥四郎の軌跡 』(1993年7月)という本でした。 発行所は水道産業新聞社です。アマゾンで ようやく手に入れました。その本との出会いは、台湾に旅行で 行った時でした。 この親日さはどこから来るのと思った時に、友人に 聞いてみたところ、司馬遼太郎の『街道をゆく四十 台湾紀行』 (1994年11月)を読んでみたらと勧めらられて読んでみたところ、佐倉市の 出身の(実際のところはご養子なので、成田の方ですが)その 方が、当時順天堂と並び評される弘世堂病院のご養子(浜野弥 四郎)になりながら、台湾に渡って、その治水に尽力なさり、 その地に身を埋めたということを知りました(181P)。 父は、水道に興味を持っていましたので、晩年、『都市の医師ー浜野弥四郎氏の軌跡 』に出会えて幸福だったと思います。 本の56ページに 「私は社会教育課を訪ねた。引き違いのドアを開けて、私は室 内に入った。数名の職員が事務をとっている。静かな室内に突 然入ってきた訪問者に驚いて、室内の人々の目が私に集まった 。私は少々たじろぎながら最初に目のあった一番近くの人に用 件を話した。」とありました。 〈返信〉 最後に読んだ本が佐倉本だったのですね。いろいろな思いを巡らせていたことでしょうね。 それから、この本が出版された翌年、司馬氏の『街道をゆく四十 台湾紀行』が出版されますので、司馬氏は、 この本が出版されてまもなく手に入れたということになります。司馬氏の渉猟のすごさに驚きます。 5月21日 レントさんから佐倉本情報あり こんにちは。ご無沙汰しています。 先日、吉村昭の『海の史劇』を読んでいたところ、「佐倉」の文字が出てきました。新潮文庫で588ページです。 すでに、満開佐倉文庫では確認済みでしょうか。 日本海海戦の話で、ロシア人捕虜の収容施設のある場所の一つとして出てきました。 〈返信〉 久しぶりですね。知りませんでした。ありがとうございます。 4月11日 Iさんより、佐倉本情報あり 『歴史読本』5月号(2010年5月 新人物往来社) 春風亭昇太氏と中井均氏の対談「戦国の城が熱い!] があり、昇太氏は千葉の臼井城、本佐倉に行ってみたいと話しています。 4月10日 Uさんより、佐倉出身の歌手、YunaさんのCD「あいいろ」をいただきました。 ありがとうございます。 4月1日 Sさんから佐倉本情報をいただきました。 『2013年 順天堂創立175年』(2010年3月 順天堂) 歴代堂主、系図、歴史、関連史跡マップ、佐藤尚中先生顕彰碑大意などが記されています。 〈返信〉 ありがとうございました。 3月25日 Fさんより佐倉本情報あり 女性漫画雑誌 『月刊 あすか』(2010年5月号 角川書店) 秋川カイネさんの「パララボ」で、佐倉の武家屋敷がモデル絵として描かれています。 ストーリーでは、生徒会室が戸建て住宅で、家のモデルは旧但馬家です。 あとがきには「佐倉市の武家屋敷をモデルにしています。ぜひ読書の皆様も武家屋敷を見に行ってください」とありました。 3月10日 sophie.eさんから佐倉本情報あり 私は、司書番号No.026 の sophie.e でしたでしょうか。 佐倉の出てくる本をみつけましたので、ご報告です。 白井かなこ『ラ・ヴ』(2006年6月 講談社F文庫) 2006年6月28日刊なので、もしかしたら、 もうどなたか報告しているかもしれませんが。 私は最近知ったので・・・ ジャズシンガーの葉月は柏に住んでいるという設定で、 美咲を誘って佐倉の川村に行き、 お気に入りのロスコルームで、メジャーデビューが決まったことを美咲に告げる。 その後、美咲も、もう一度女優を目指すことを決める・・・。 という場面があります。 〈返信〉 もう、たいへんにごぶさたしています。6年ぶりぐらいになるでしょうかね。 ありがとうございました。 3月8日 ホームタウン佐倉さんから佐倉本情報あり 梅も満開の昨今ですが、お変わりありませんか。 図書館から借り出しの北川哲史著「鍛冶橋阿波騒動事件」(大和書房、 2007年12月)を読みますと「佐倉」が1ケ所だけ出て参りましたので、 ご参考までにお知らせします。 当時の旅人が、いくら足が早くても、江戸から渡船が2ケ所もあり、当然 時間を要すると思われるのにその日のうちに酒々井まで到着とは疑問 もありますが、作家の距離感のなさがそんなことを書かせたのでしょうか。 該当部分は下記のとうりです。 「明くる日、内膳と出羽小六(注、いずれも人名)は連れ立って酒々井村 へ出発した。江戸を出て荒川、江戸川を渡り、印旛郡に入って佐倉を 過ぎると酒々井村であった。朝早く出たために日のあるうちに酒々井 に着くことができた。竹屋という酒造家を訪ねた。」(p251) 3月7日 えりっぷさんから佐倉本情報あり パソコンが壊れてしまい、メールもできませんでした。本日やっとページが開けました。 志津図書館の駐車場脇、西志津多目的広場の河津桜も満開です。明日がさくら祭りとのことでしたが 雪が降るかもでどうなるか心配です。 高村薫『太陽を曳く馬』下巻(2009年7月刊 新潮社) 「佐倉の川村記念美術館へ足をのばし、バーネット・ニューマンの「アンナの光」を観てきました」(376P)とあります。 〈返信〉 ごぶさたしております。情報、ありがとうございました。 2月12日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり。 『ウェブスター辞書と明治の知識人』早川 勇(春風社 2007年11月) この本は、ウェブスター辞書の歴史を整理した上で、 各種ウェブスター辞書とかかわり活動した明治の知識人の足跡をたどっています。 その中に、西村茂樹と津田仙が出てきます。 P172 「西村茂樹『記憶録』の一節は、当時の学習法を如実に物語っている。『英学の 初めは、ホーイベルグ又はボムホフ氏の英蘭辞書に拠り、初めは蘭語にて英語を引き、 再び和蘭字彙にて其蘭語の訳を求むるなり。』(松平直亮 一九三三、上巻三四六頁) 西村は儒教による国民道徳の興隆に努めた倫理学者である。」 P195-196 「慶応年間になるとウェブスター大辞書を手に入れた知識人も増えた。蘭学から転向した 西村茂樹(二・五を参照)も慶応三年にウェブスターを購入している。 『而して其翌三年正月十四日、始めて代金八両弐分を以て、ウェブストル辞書を購求せり、 (中略)而して当時同辞書が、英学者唯一の宝典たりしことは、其価格の非常に 高価なりしを看て、之を徴すべし。要するに先生は、此時多年の宿志漸く酬ゐられ、 是等貴重書を獲しを、心窃かに欣悦せしならん。』(松平直亮 一九三三、下巻六七三頁) 西村は下総佐倉の藩士で、明六社の創立に参加した。儒教による 国民道徳の交流に努めた倫理学者である。その西村がウェブスター辞書を『英学者 唯一の宝典』と呼んだのである。」 P200 「津田仙や箕作阮甫は安政四年(一八五七)にすでに英語を学び始めたと 思われる。」 注記:節の介 本文中の二・五はP172の記述のこと 本文中の(中略)は、原文のまま 本文中のP172「興隆」とP196「交流」は、原文のまま 引用している参考文献・松平直亮は、『泊翁西村茂樹伝』上下巻、日本公道会、一九三三 2月11日 佐倉情報 太平洋戦争で活躍した空母「瑞鶴」の艦長貝塚武男大佐―少将(のち中将)は、旧制佐倉中出身との情報をいただきました。ところが、ネットでは佐原中とヒットします。 貝塚武男大佐はマリアナ沖海戦に参加。昭和19年10月25日、エンガノ沖海戦で小沢中将率いる囮艦隊の主力艦としてアメリカ軍の攻撃を引受け瑞鶴は沈没。 それまで「瑞鶴」は損傷を受けることがなく、栄光の空母とか、幸運の空母と言われています。 さっそく、神野正美『空母瑞鶴』(2008年11月 光人社)、豊田穣『瑞鶴―栄光の空母―』(1976年3月 毎日新聞社)を読み始めました。 映画「連合艦隊」(1981年)にも描かれています。みなさまの情報をお寄せください。 2月2日 節の介さんから佐倉本情報あり 『城郭みどころ事典 東国編』編者 西ヶ谷恭弘・多?正芳(2003年9月 東京堂出版) P84-87に佐倉城についての説明が有ります。 『歴史群像シリーズ よみがえる日本の城 2 江戸城』発行 学習研究社 2004年6月 P32-37に佐倉城についての説明が有ります。 トップページ |