佐倉本情報 佐倉本は、小説、雑誌、同人誌などに佐倉が一文字でも出てくる冊子の総称です。 【図書の紹介にあたって】 図書を紹介するにあたっては、著者、題名、発行年、出版社を記入するほか、佐倉が出てくる部分を一部引用しています。これは、題名だけでは図書の内容がわからないため、利用者が図書を選ぶにあたっての目安としていただきたいと考えたからです。 引用にあたっては、掲載した文章の誤字、脱字もあろうかと思うので、利用者は原著を読み、原著から引用をしていただきたいと考えています。 また、引用部分は文庫で判断したため、著者の納得いただける引用部分ではないかも知れませんが、なにとぞ趣旨をご理解いただきたく、お願いいたします。 【2009年1月1日〜 】 12月1日 長嶋本情報(佐倉が出てこないのです) 『文藝春秋』2009年12月号(文藝春秋) 長嶋さんが日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー加藤良三氏と対談しています。「長嶋茂雄が語る『天覧試合』あの4打席を語る」です。(174〜188P) 11月23日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』(2009年11月 日本経済新聞社) 佐倉での小学、中学、高校時代の野球のことも 書かれています。 日本経済新聞「私の履歴書」で連載された記事がベースになっているものです。 11月22日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり @島尾敏雄 エッセイ「佐倉海隣寺坂」『透明な時の中で』所収(1988年1月 潮出版社) 著書が各種の書物に書いた文章をまとめたもので 佐倉のことについては、次のページに収録されています。 書き出しと、最後の文を抜粋します。 〈佐倉海隣寺坂〉 「印旛沼南辺の佐倉の町に積んだ過去がある。 (中略) あれからわずか三十年足らずの歳月しか経ってはいないが、 その折の並木町の家屋は既に取り壊され、別の近代的な 建築に建て変わっていて、何の跡形も残っていない。」(週刊新潮 59・10・4)(67-68P) A島尾伸三『月の家族』(1997年5月 晶文社) 「丸坊主の子供など数えるほどしかいなかった 小岩小学校から、丸坊主だらけの池袋第二小学校へ 転校した時は、千葉県の桜小学校へ転校した時よりも 田舎へ来たような気がしました。」(74P) B島尾伸三『小高へ 父 島尾敏雄への旅』(2008年8月 河出書房新社) 「私が小岩の小学校へ入学したのが、下小岩小学校だった のかも知れません、昭和三十年四月に入学して数日で 佐倉へ引っ越したので、その年表と合致します。」(31P) C島尾伸三『東京〜沖縄 損なわれた時を求めて』(2004年3月 河出書房新社) 「小岩の小学校も千葉県佐倉の桜小学校にも一週間も 通いませんでした。」(19P) 節の介の注:AとCの「桜小学校」は原文のままです。 10月8日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 佐倉市立美術館編『佐倉・房総ゆかりの作家たち −収蔵作品を中心として』(1994年) 佐倉にゆかりのある作家として、下記の人たちが紹介されていました。 洋画: 秋吉匠(1952年から1978年まで県立佐倉高校教諭) 浅井忠(1863年から1873年まで佐倉市将門町で過ごす) 荒谷直之介(1968年から佐倉市に在住した) 牛玖健治(旧制佐倉中学校卒業) 梅澤一雄(佐倉市生) 倉田白羊(元佐倉藩士・倉田幽谷の次男) 小林健樹(1965年以降佐倉市在住) 櫻井慶治(佐倉市生) 佐藤事(1948年以降佐倉市在住) 柴宮忠徳(1982年以降佐倉市在住) 都鳥英喜(佐倉市生) 原三郎(1972年以降佐倉市在住) 結田信(1945年以降佐倉市在住) 版画: 生田宏司(県立佐倉高校卒業) 長島充(1987年以降佐倉市在住) 日本画: 齊藤惇(1955年以降佐倉市木野子に住み、1967年四街道市に移住) 彫刻: 久保浩(佐倉市在住) 関正司(佐倉市在住) 寺田栄(佐倉市在住) 工芸: 上瀧勝治(佐倉市在住) 香取秀真(1881年から1891年まで佐倉の麻賀多神社で過ごした) 香取正彦(1901年から1910年まで佐倉の麻賀多神社で過ごした) 鈴木治平(佐倉市在住) 津田信夫(佐倉市生) 堀柳女(実家は旧佐倉藩士の柿内家) 安本正三(1971年、佐倉市八木に築窯) 10月3日 連載小説のおしらせ 山崎光夫氏(平成10年『藪の中の家―芥川自死の謎を解く』で第17回新田次郎賞受賞)が、佐倉順天堂・佐藤尚中の娘志津と横井玉子を描いた「二つの星」という小説を 『美術の窓』2009年6月号(2009年6月 生活の友社)から連載をしています。サブタイトルは「横井玉子と佐藤志津 女子美術学校建学への道」です。 話は、幕末、佐倉の順天堂から始まります。浅井忠も描かれていますので、どうぞお読みください。 10月2日 佐倉にゆかりのある人を追って 大正時代に、天野喜久代という佐倉出身のオペラ歌手がいた。オペラといっても、ヨーロッパで行われている本格的なオペラではなく、 「浅草オペラ」といわれる和製オペラである。 喜久代は、「二村定一のサイト べーちゃんの唄」というウェブサイトによると、本名は新井ふく、佐倉市出身、日本橋高等女学校卒業後、大正2年に帝劇歌劇部2期生として入部とある。 増井敬二『浅草オペラ物語』(平成2年 芸術現代社)には、浅草オペラの女優番付があるが、喜久代は大関である。 浅草オペラが衰退したのは、大正8年に来日したロシア歌劇団による本物のオペラを見せられたことであった。 喜久代については、瀬川昌久『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』(1983年8月 サイマル出版会)も参考となる。 9月28日 佐倉本情報 新井えり『名士の系譜 日本養子伝』(2009年9月 720円 集英社) 第五章は順天堂医院開院とあり、佐藤尚中の話が75頁〜87頁にわたって記されています。 9月25日 佐倉本情報 笙野頼子『萌神分魂譜』(2008年1月 1800円 集英社) 「二00七年五月十三日、生まれてから五十一年と二カ月以上経ってしまった私のひとり暮らしの住まい、 千葉の片隅の既に築七年に入る建売一軒家の、台所の床から、―。」41頁 「そこには、降りられないけれど沼の見える、崖沿いの道路のガードレールぎりぎりに歩いて行くのだ。」151頁 「土地問題は重要で、特に印旛姫之宮等を見てから、神社の移転はよくあるらしいと私は判ったのだ。」152頁 笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』(2006年4月 1600円 河出書房新社) 「千葉郊外でありながら、辛うじて車なしで生活出来るだけの便利さを備えた街。その中で人と同じようにして暮らしてみたかったのだった。 まあ出来るだけだが・・・・・。」60頁 8月16日 節の介さんから、佐倉本情報のメールあり 「佐倉」を冠した朝顔を説明した図書です。 米田芳秋『色分け花図鑑 朝顔』(2006年5月 学習研究社) 「佐倉の舟歌」(紫無地) 東京の芦澤恒夫氏作出。「吉祥19号」(紫)×「雷神」(藤)の 交配から当初は藤色に優秀色が出たが、近年は分離した紫色が 有望である。(P37) 「佐倉の舞姫」(紅覆輪) 東京の芦澤恒夫氏作出。「太古の娘」(紅)×「柴垣桃園」(桃吹 掛絞り)の交配から得た。(中略)この品種より桃覆輪の「佐倉の絵姿」が 分離した。(P42) 「佐倉の桃」(桃無地) 平成2(1990)年、千葉県佐倉の木戸嘉明氏が知多市の岡田清氏より「朝倉」の 仲間の種子分譲を受け、花名を新しくつけたいとのことで、芦澤恒夫氏が佐倉の 名を冠して命名した。(P51) 「佐倉の絵姿」(薄桃無地) 東京の芦澤恒夫氏が「佐倉の舞姫」(紅覆輪)から分離、選出。花径は 「佐倉の舞姫」に劣るが花切れが少ない。(P52) なお、「佐倉の清衣」、「佐倉の紫」、「佐倉の翁」については 取り上げられていません。 <返信> ありがとうございました。以前、 朝顔 の花を紹介したことがありますので、参考に掲載します。 7月9日 佐倉情報 佐倉では伝えられていませんが、地元の話をするのに佐倉を引き合いに出した言葉があります。「鶴舞教師に佐倉巡査」という言葉です。 これは明治初期に行われた廃藩置県により、失業した鶴舞藩士(現市原市)の多くは教師に職を求めたということをたとえたものですが、 語呂合わせに佐倉藩士は失業して巡査になったということです。 もっとも、何人もの優れた教師を県下に送り出したというたとえですから、自慢げに使われたのでしょう。 (『市原市史』下巻 昭和57年 196頁) この佐倉巡査という言葉ですが、単に引き合いに出されたのかというと、そうではないようです。千葉県警察本部・千葉県警察創立百年記念事業実行委員会が刊行した 『警察百話』にも「佐倉巡査」というたとえが使われたことがある、と記していますから、それなりに士族が巡査になったのでしょう。 (昭和49年 35頁) 知られた人物としては、立身流の兵法家であった逸見宗助が警視庁の撃剣巡査として採用されています。宗助らによって、警視庁流剣術の形がつくられました。 今日も立身流の形を色濃く残す剣術の形と居合いが警視庁に受け継がれています。 鈴木清助は、廃藩置県後、東京に出ます。このころ、山岡鉄舟と親交を深め、鉄舟から案山子の絵、一幅を贈られる。絵には讃があり 「たふれても弓矢は捨てぬ案山子かな」と書かれていました。明治一五年に千葉県巡査となり、同二一年、佐倉警察署在勤となります。 そして、明治二三年四月三日、川崎銀行佐原支金庫から、沿道各警察本分署に警護の依頼要請を受けます。 翌日、清助は警護について佐倉を出発。千葉郡都賀村にある通称「夫婦坂」で賊に襲われる。銃弾三発をうけながら捕獲。これがもとで死去。 (露崎栄一『夫婦坂輪廻の絆』平成12年) 笹沼勝用は、廃藩置県後、東京に出て柔術を教えながら浜町で向井流教場を開きました。これは明治維新後、東京における最初の民間水泳場です。 勝用は東京府の水上警察署生活係に勤めました。(向井流水法会『増補改訂 向井流水法書』平成3年 55頁) 7月8日 駕篭舁さんから佐倉本情報です。 羽生道英『大老 井伊直弼』(光文社時代小説文庫 2009.5) 井伊家11代藩主の14男として生まれた直弼が、部屋住みの身から幕府大老に 出世し、暗殺されるまでの一代記ですが、堀田正睦と会話を交わす場面が 随所に出てきます。 この正睦が、あるときこんなことを言い出した。 「直弼どのは、幕府に阿蘭陀風説書という書き物があることをご存知かな」 正睦が少し目を凝固させていった。普段に見せない真剣味があった。 「いや、初めて聞きました」 「兄上、いやご養父直亮どのに聞いたことはござりませぬかな」 まずは怪訝そうにいったが、正睦は、すぐに取り消すような納得顔に変わった。(87頁) 「ただいま不肖の身をもって、上様から大老職を拝命いたしたが、このような 重大な時節に、大任をお受けしたのは僭越な振る舞いでござった。正睦どの、 ご貴殿から上様に大老を辞任することを申しでていただきたい」 直弼は眉一つ動かすことなく、正睦を直視した。そこには駆け引きするような 浅ましい態度は、微塵もみあたらない。 「上様のお眼鏡に叶い、ご下命があったことでありますゆえ、掃部頭どの、 辞退などなさらずに大老職を勤め上げられたら如何でござるか」(168頁) 等々です。 <返信> ありがとうございました。 7月1日 佐賀のMさんからの佐倉本情報、後半です。 後藤末雄著『芸術の支那・科学の支那』(第一書房) 昭和十六年の初夏から行った中国旅行の紀行文です。本書に「アマ犬」と「コマ犬」が出ています。この語彙は後藤末雄著『随筆 生活と心境』(第一書房)にも出ていました。 国文科の上田萬年と芳賀芳一の両先生をこう表現していました。どうやら「アマ犬」とは阿形の狛犬だとは想像できます。 『日本国語大辞典』には、天犬として狛犬の異名と出ており、印旛郡の方言に牝犬と出ていました。阿形の狛犬のことを御地では「アマ犬」と言いますか。 後藤末雄の生地は東京です。 寺石正路著『高陽山人』(土佐美術協会) 中山高陽は土佐出身の画家です。高祖父の次男が佐倉に赴いて堀田家に仕えて、二千石の大身になったと書いていました。 左近太夫貞親という名です。中山高陽の東遊時代佐倉訪問は一度もなかったのでしょうか。但し、記事は少なかったです。 アリス・ベーコン著『華族女学校教師の見た明治日本の内側』(中央公論社) 作者のアリス・ベーコンは山川捨松のアメリカ留学のホームステイ先の娘であり、明治二十一年に捨松と津田梅の推薦によって来日して、華族女学校教師となり、 後に津田梅の女子英語塾の設立にも協力した女性です。 興味深い記述が多かったが、一か所思わぬ情報を得ました。徳川家の雛祭りに招待されていた場面で、 「梅の叔母は、徳川家に仕えているため、私たちに便宜を図ってくれた」と書いており、その注に、 「梅子の母初子の姉竹子は、田安徳川家の慶頼の側室として三男の家達を産んでいる」とあった。 本書の訳者は久野明子です。 ならば二人は従兄弟になるではないかとネットで調べたら、Wikipediaの徳川家達の項に家達の母は高井氏とあった。 更に調べていたら、Googleブック検索に『徳川将軍家墓碑総覧』があり、そこに生母武子は津田栄七の息女であり、津田栄七長女高井主水養女とも出ていた。 津田仙は津田栄七の婿養子となり、栄七の娘の初子と結婚しています。従って津田梅と徳川家達は従兄弟になることはどうやら確かな情報でした。それにしても面白い情報でした。 尚、この二人の関係については、福田須美子著『つながりあう知 クララと明治の女性たち』(春風社)に、梅子の伯母竹子のことを徳川家達の生母と書いていました。 こちらの本は、勝海舟の三男梶梅太郎と結婚したクララを中心にした交遊関係を丹念に拾い上げた力作でした。 「津田ファミリー」の項があり、そこで上記の言及がありました。 村上信彦著『明治女性史 上巻 文明開化』(理論社) 本書は三百七十九頁の大冊で、その最後の頁の見開きに、佐倉領百姓重右衛門の幼院取建の儀の願書の記事が明治二年五月の中外新聞十五号に掲載されているとの注がありました。 この他、佐藤志津の女子美術学校の記事もありました。 大河内輝声著『大河内文書』(平凡社・東洋文庫) 本書は明治期来日した黄遵憲と日本の文士たちとの交流を筆談集として残したもので、想像通りに依田学海が登場しました。 そこに思いがけず学海の兄である依田柴浦まで登場しました。 大河内輝声の依田柴浦紹介文までありました。紀鹿洲こと元佐倉藩主堀田正倫も登場した。彼は大河内輝声の叔父であった。亦、佐治自慊も合席していた。 彼については未詳とあったが、彼も佐倉関係の人物でしょうか。Webの「佐倉藩士小柴宣雄の墓碑が語る」に、 「碑文を書いた佐治自謙は、佐倉藩の年寄を勤めた佐治三左衛門である」とあります。 『学海日録』に佐治済や佐治自謙が登場していますが、佐治三左衛門も含めて同一人物とみなしても宜しいでしょうか。 国松俊英著『鳥のことわざうそほんと』(山と渓谷社) 徳川家康が晩年船橋・佐倉方面に二か月もの長い鷹狩り旅行したとあった。ネットで調べたらどうやら事実であるようだ。 中道等著『従四位池上幸豊小伝』(池上文庫) 池上幸豊は江戸期に池上新田を拓いた人物で、砂糖作りでも有名です。本書は昭和十五年に池上文庫から刊行されており、 安永三年に上総、下総、上野、下野の廻国の途次に佐倉を通過しているとの記事がありました。 県立図書館所蔵の中道等編『池上家文書 1〜6』(池上文庫)も確認したけれど、この時の紀行文及び日記の類は確認できませんでした。 『鉄道旅行案内』(鉄道省) 、大須賀風趣著『偉人宗吾』(民本社出版部) 『鉄道旅行案内』は大正十三年十月刊行です。吉田初三郎の鳥瞰図確認のために借りた本でした。総武線では成田山と印旛沼が描かれた鳥瞰図があり、 その一番左の印旛沼の近くに光膳身投松が描かれていました。「光膳身投松」ではネットに何の情報もなかったので調べました。 吉田初三郎の鳥瞰図には宗吾霊堂と仏頂寺なども描かれており、印旛沼の畔には甚兵衛渡しがあり、宗吾霊堂の近くに宗吾邸旧宅も描かれていました。 どうやら佐倉騒動を描いているようです。ネットでしらべると、「佐倉義民伝」では宗吾の叔父にあたる仏光寺の光然和尚という人物が登場する。 芝居では光然が怒りで入水して鬼になるという。この事ではないだろうかと思い、その確認の為に県立図書館から、 大正十一年初版発行の大須賀風趣著『偉人宗吾』(民本社出版部)も借りて読みました。 民本社出版部は印旛郡公津村下方にあり、霊堂公認の文字もありました。大須賀風趣がどうゆう作者であったか分かりません。 刑場の場面に「光全和尚」が登場した。本書では総領彦七の首を抱き印旛沼に遁走して、印旛沼べりの老松に袈裟を掛けてそのまま沼に飛び込んだと書いていた。 寺が下岩橋にある大仏頂寺と書いてありました。これで『鉄道旅行案内』にあった吉田初三郎の鳥瞰図の「光膳身投松」と「仏頂寺」の説明はできると思います。 『偉人宗吾』の口絵写真に「義僧光全和尚袈裟掛の松」の写真と甚兵衛が封鎖を破った水神の渡りの老松の写真が共にありました。 横山健堂著『義民宗吾』(日東堂) 本書も今回の宗吾調べで借り出して一読しました。大正五年の刊行で、「大仏頂寺の光全和尚」の章があり、 「印旛湖畔の袈裟掛松」がありました。依田百川には「宗吾は三百代言なり」という持説があったと書いていました。 本書巻末に、木村鷹太郎の「健堂君の佐倉宗吾説に就て一言す」の文章が収録されています。彼は宗吾烏有論者であり、 しかもソクラ・テスは佐倉の人という意味だと奇怪なる論を展開していました。トンデモ本は何時の時代にもあったようです。 以上、時系列的には卑近の読書から遡及しています。三月と四月は『旅と伝説』全三十二巻を閲覧していました。 この覆刻雑誌にも佐倉情報が少しありますが余りに長くなりますので後便とします。HPではゆっくりとされている時期とありました。 今回も瑣末な佐倉関連情報で恐縮ですが、宜しく御査収下さい。把握済みの図書や資料もあるかと思いますが、サイト内検索は実行していませんので不悪。 今夜は夜になっても気温が下がらず、窓の下ではクビキリギスが頻りに鳴いています。 〈返信〉 ありがとうございます。Mさんの読書量に圧倒されます。調べてお知らせしなければならないことがいろいろありますが、 しばらく(当分)時間をいただきたいと思います。 6月21日 佐賀のMさんから佐倉本情報あり 御無沙汰しています。当地は空梅雨気味で、今日も三十三度の猛暑でした。その後の読書で佐倉情報が貯まりました。 来週には梅雨前線が九州に近づくと予想されていますので、本格的梅雨になる前にそれらを放出します。 西野嘉章、クリスチャン・ポラック編『維新とフランス 日仏学術交流の黎明』(東京大学出版会) 「日仏修好通商条約百五十周年記念特別展示」の副題が付いていて、文久三年の幕府遣欧使節団の三宅復一(秀)の「渡欧日記」である「欧羅巴エノ日記」の翻刻もあった。 リュドヴィク・サヴァティエが行った『花彙』の翻訳協力者に佐波一郎の名前がありました。 調べたら彼の名前から採った植物の学名の種小名のSabaeiもありました。学名Dryopteris Sabaeiのミヤマイタチシダ(深山鼬羊歯)があります。 亦、川島忠之助の人物略伝に依田学海の娘との結婚について、次女琴柱を見染め、結婚を望み入籍したと書いていました。 その後フランスに征くけれど、六年後結婚の為に一時帰国したら破談になっていたのを聞いて怒り嘆いたとありました。 宮原英一著『近松門左衛門の謎 長州生誕説を追って』(関西書院) 冒頭近くに、「依田学海の妾宅日記」に「伝承に出づるものは、かへつて信にして、文書目録の書はかへつて偽なるなり」という文があると書いていた。 歴史研究ではしばしばこうゆう事例に出会います。出典を確認しておきたい文章でありましたので、この際と思い『墨水別墅雑録』を相互貸借で取り寄せて貰い読みました。 依田学海著『墨水別墅雑録』(吉川弘文館) 二読、三読してやっと該当頁を見つけました。明治二十三年四月十四日の条にありました。「然則出於伝聞者反信、而文案日録之書乃偽也」「伝承に出づる者は、反つて信にして、文案日録の書は乃ち偽なる也」 『墨水別墅雑録』は想像通りのお宝情報満載の第一級の記録でした。本書にも、宮崎立元の「函館紀事」への言及がありました。 尚、248頁の前佐賀侯鍋島直彬は鍋島直正の間違いです。 田山花袋著『復刻版 田山花袋の日本一周 後編 関東・東北・北海道』(東洋書院) 新刊棚で見つけました。日本一周の関東編なら佐倉も登場するだろうと思って借りました。巻末近くの「東京附近」に佐倉記事が出ていました。 「佐倉では、城址、兵舎、その他別に見るものがない」以上が全文です。田山花袋は佐倉よりもお隣の成田に多くの文章を割いていました。 原本は大正五年に博文館から刊行されています。 倉沢剛著『幕末教育史の研究 三 諸藩の教育政策』(吉川弘文館) 東伏見宮の英国留学の随従の一人に東京府貫属津田仙弥の名前が出ていた。津田仙弥とは津田仙のことではないでしょうか。 738頁の「東伏見宮の英国留学と諸藩士族の随従」参照。東伏見宮は小松宮彰仁親王のことで、明治三年にイギリスに留学しています。 それにしても津田仙が英国に行ったとは聞いたこともないし、読んだこともないと思いますがこの事は判明していることでしょうか。 ミルキィ・イソベ監修『造本解剖図鑑』(ワークスコーポレーション) 笙野頼子が「北房総の内陸、S倉市へ移住」(109P)とありました。笙野頼子は読んだことがない作家でしたが、試しに『S倉迷妄通信』(集英社)を一読しました。 池田哲郎著『日本英学風土記』(篠崎書林) 千葉の「佐倉藩英学書志」がありました。 〈返信〉 Mさんからいただいた情報の半分を掲載します。残りは後日、掲載します。いくつか答えることがありますが、 時間をください。 6月14日 佐倉本(郷土資料)情報 一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』(2009年2月 講談社現代新書) 佐倉連隊の演習の話があります(63頁) 6月7日 佐倉本情報 絵本『侍戦隊 シンケンジャー ひみつ百科』(2009年 永岡書店) テレビ朝日で「侍戦隊シンケンジャー」が放映されています。このシンケンジャーたちが住む家、つまり秘密の基地志葉家屋敷 が旧堀田邸という設定で、ロケがされています。シンケンジャーについては、子供向けの絵本が何冊かでています。 その中で、旧堀田邸が出ている本が上記に本です。ほかにありましたら教えてください。 5月23日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 寺沢龍『明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女』平凡社新書449 (2009年1月 平凡社) 明治4年に岩倉遣外使節団に同行してアメリカに渡った 5人の女子留学生の人生の軌跡を著したもの。 津田梅子の人生も取り上げられており、彼女にかかわりのある佐倉の人物として、 梅子の家族(津田仙ら)や、華族女学校の校長の西村茂樹も出てきます。 <返信> ありがとうございました。 5月19日 佐倉本情報 『房総に生きた人びとと歴史』千葉史学 第54号(2009年5月 千葉歴史学会編) 佐倉に関係のある人物として、佐倉惣五郎(鏑木行廣)、依田学海(土佐博文)、浜野昇(中澤恵子)が取り上げられている。 その他、県内において、あまり知られていない人物が取り上げられているのでご覧ください。 雑誌『美術の窓』6月号(2009年6月 生活の友社) 山崎光夫氏の連載小説「二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道」が始まりました。 ご覧ください。 5月17日 節の介さんから、佐倉市民本、郷土資料のメールあり 宮武孝吉『志津の史跡と名所』(2001年7月 志津文庫 220頁) 志津のガイドブックとして便利です。神社、寺院、石仏、馬頭観世音、地蔵尊、庚申塚、道標、石碑などに ついて取材し、写真とともに近隣の住民のお話や歴史が付記され、内容も充実しています。 5月12日 節の介さんからのメール。昨日の続き。 (3)『金馬のいななき 噺家生活六十五年』 著者:三遊亭金馬(四代目) 発行:朝日新聞社 2006年3月 P154 師匠の鉄道事故 昭和二十九年(一九五四)二月五日、師匠が鉄道事故に遭いました。 千葉の印旛沼にタナゴを釣りに行っての帰り道、総武線の鉄橋の うえを歩いていたところを上り列車にはねられて、病院に 担ぎ込まれたのです。 事故が起きたのは昼の一時ごろで、そのまま国立佐倉病院に 緊急入院。左大腿部と足首に重傷を負いました。 (略)師匠は国立佐倉病院で応急の手当をしまして、それから 寝台自動車で赤坂の前田病院へ運ばれました。 (略)師匠は印旛沼にはしょっちゅう出かけていまして、帰りは いつも総武線の線路を伝って歩いていたのです。もう、電車の ダイヤも全部頭に入っていたから、この時刻は鉄道が来ない、 大丈夫だと思い込んでいたところにうしろから車輛が来たのですね。 (4)朝日新聞(昭和29年2月6日)朝刊 「金馬はねらる 成田線鉄橋で」 【千葉発】五日午前十一時四十五分ごろ成田線佐倉−酒々井間鉄橋を 歩いていた三遊亭金馬は銚子発千葉行き 上り四二〇列車=○○○○機関士にはねられ、左モモ二カ所、 左足首などを骨折、佐倉町国立病院で手当中だが重体。 同病院では「左足首から切断しなければならぬだろうが、心臓も弱り 出血も多いので心配だ」といっている。佐倉地区署の調べでは、印旛沼 方面にツリに来て近道しようと鉄橋を渡ったものらしい。 〈返信〉 これで、金馬が鉄道にはねられた月日がわかりました。節の介さんの資料調査に感謝します。 はねられた場所が成田線の佐倉―酒々井間の鉄橋になりますね。千葉市のSさんからいただいた長熊の先という話と 合致します。 ホームタウン佐倉さん、この鉄橋の名前がわかりますか。 5月11日 節の介さんから金馬の情報をいただきました。 金馬の鉄橋事故情報です。 (1)『江戸前の釣り』つり人ノベルズ(赤6) 著者:三遊亭金馬(三代目) 発行:鰍ツり人社 1992年9月 (『江戸前つり師』(1962年徳間書店刊)の復刊です) P19 ぼくは、この小さなタナゴに魅せられて、千葉県佐倉の 鹿島川の鉄橋で汽車にはね飛ばされ、半年も入院したのだから、 実にあっぱれなものと自分でも思っている。 P21 昭和二十九年、ぼくがケガをした年の日記を見ると、 (これらの記述は、5月7日の記事と同じですね) (2)『浮世だんご』つり人ノベルズ(赤12) 著者:三遊亭金馬(三代目) 発行:鰍ツり人社 1993年9月 (『浮世断固』(1959年有信堂)の復刊です) P226 怪我をした昭和二十九年はちょうど甲牛年で、 ぼくが明治二十七年甲牛年生まれの本家帰りである。 (略)二月の五日は朝起きてみると (略)近い所と思って千葉県佐倉の鹿島川がよかろうと、 一人で決めて釣り場に行ってみると、どこかの澱粉工場から 流したか、「ヌル」が「海苔ヒビ」のようになっている。 これでは釣りにならないと十一時頃に竿をしまって、 線路づたいにぶらぶら歩く。 (略)汽車が近づいてきたら 土手から降りればよい。と思いながら、いつか鉄橋へ かかっていた。どこかで初午の太鼓が聞こえる。真ん中まで くるとあとからピーピーピーピーと汽笛を盛んに鳴らすが、 鉄橋の上でかけだすことも、横に避けることもできない。 「猫は魔のもの」というが、「事故は魔のもの」といいたい。 ドカンときて、二、三間はねとばされたとみえる、気がついて みると汽車はとまって、人が大勢集まっている。腰の手拭を とって大腿部をゆわえて、誰かに「手伝ってください」と 止血をして蟇口から名刺をだして名乗りを上げてしまった。 (略)「なんだ、噺家の金馬じゃないか」 という声も聞こえた。誰かが梯子をかけて、 「これへ乗れるか」 といった。乗ってみようと左足先を見ると、長靴が切れて 血がでている。佐倉の国立病院へかつぎこまれるまで、 むやみやたらと喋ったらしい。 (略)あれが昏睡状態というものか、佐倉は何度もタナゴ釣りにいくので、 駅員から売子まで顔見知りだ。駅前でいつも釣りの帰りに飲むそば屋の 親父の顔も見える。 (略)佐倉の病院では思うように手当ができないからというので 赤坂の前田病院へ寝台自動車で移された。 〈返信〉 ありがとうございます。 『金馬のいななき 噺家生活六十五年』の紹介は後日にします。 5月10日 千葉市のSさんからメールあり 久しぶりです。金馬の話は昔父から聞きましたが、鹿島川の鉄橋ではなく支 流の高崎川の鉄橋ではないでしょうか。 場所は、長熊の先と聞いてますが、違いますでしょうか。父は長熊の出身で すが、なにぶんにも昔の話です。 〈返信〉 情報、ありがとうございます。 たぶん、東京から見れば金馬は高崎川も鹿島川という認識であったのかも知れませんね。 情報をお待ちしています。 5月8日 昨日の補足 三遊亭金馬(三代目)の事故情報をいただいたのは4月半ばでした。ところが、出典がわからないので掲載することをしませんでした。 アマゾンで金馬の本を探したら『江戸前つり師』がありました。この本を注文する一方、鉄道に詳しいホームタウン佐倉さんに メールを送り、話を聞いた次第です。 ホームタウン佐倉さんからの返信と、前書で佐倉の事故を確かめられたので掲載することにしました。そのようなことで、 昨日の掲載文章は、10数日間の間隔があります。 また情報提供者から、この鉄橋は亀崎鉄橋でしょうか?というコメントもありました。 ところで、情報提供者からは、金馬が事故にあった日は昭和29年2月5日と聞いたのですが、『江戸前つり師』の文では 昭和29年までしか、たどれません。しかも『江戸前つり師』の文は文中から探したものであり、「プロフィールにある」もの、著者略歴では ないのです。もしかすると、情報提供者の情報は、落語の本(全集)とかCDに書かれたプロフィールなのかも知れません。 どなたか、落語に興味のある方がいましたら教えてください。 それから、ホームタウン佐倉さんのメールにありましたが、「俺は金馬だ。金馬だと言っていた」本を探す必要がありますね。 これは、郷土資料のどこかにあるのでしょう。以前に出されていた『佐倉地方文化財』とか『佐倉地方文化』などにあるかも知れません。 どなたか、よろしくお願いします。 5月7日 〈ホームタウン佐倉さんへ〉 見つけました。 三遊亭金馬『江戸前つり師』(徳間文庫 1988年)に書かれています。 「ぼくは、この小さなタナゴに魅せられて、千葉県佐倉の鹿島川の鉄橋で汽車にはね飛ばされ 半年も入院したのだから、実にあっぱれなものと自分でも思っている。」(18頁) 「昭和二十九年、ぼくがケガをした年の日記を見ると、」(19頁)、怪我をした年がわかります。 ただ、この本には事故に合った日が書かれていないので、情報をいただいた方は別な本から知ったのでしょう。 金馬は釣日記を書いていますから、金馬の日記が記された本を見ているのでしょうかね。 〈ホームタウン佐倉さんからメールあり〉 三遊亭金馬が鹿島川鉄橋で汽車に跳ねられたのは事実です。この事故で 左足が不自由になり、正座できなくなって、あぐらで座らざるを得なくなった ため、高座では見台(笑点で司会者の前に置いてある台、落語家は一般に は用いず、講談師が使っている)を前に置いて口演しました。 以前、市民の方の「おもいで集」(誌名、題名、執筆者名は 記憶になし)を手当たりしだい濫読した際に旧駅員の某氏が「跳ねられた人 を運んだ際に「俺は金馬だ。金馬だ」と言っていたが、あとで落語家の金馬と わかってビックリした」と書いていたのを覚えています。 〈ホームタウン佐倉さんへ〉 教えてください。 落語家で三遊亭金馬(三代目)が、昭和29年2月5日、佐倉の鹿島川にタナゴ釣りに出かけた帰り、 鹿島川の鉄橋上で汽車にはねられ、左足に重傷を負ったそうです。 彼のプロフィールにあるそうですが、どの本に書かれているかご存知ですか。 知人からいただいた情報ですが、聞いた話なので確定できません。 5月5日 ホームタウン佐倉さんから佐倉本情報のメールあり こんばんは。晴天が続く絶好のGWをいかがお過ごしでしたか? ところで南図書館から貸し出しを受けた鈴木理生著「お世継ぎのつくりかた −大奥から長屋まで江戸の性と統治システム」(筑摩書房・2006年9月発行) は、題名を読むと好色本のように思われますが、中身はまったくまじめな歴史 書でした。 その本のなかに下記のような記述を発見しました。佐倉に関係ありなのでご報 告します。 11代将軍、徳川家斎の側室に関しての記述のなかで、赤門は将軍家の娘が 嫁入りした大名だけに建築が許された特権で、いったん焼失すると再建を許さ れないこと。 したがって火災の多かった江戸では貴重な存在であったことを説 明の上、当時の歌川広重が描いた「名所江戸百景」のなかに赤門が「前田家 (現東京大学)」「井伊家(現国会議事堂外苑)」「松平家(現日比谷公園内)」のほか に下記のように堀田家の四ケ所にあったことが述べられています。 「『みつまたわかれの淵』の題名の画面右端の中段に描かれた門(現中央区日本 橋浜町3-19辺)である。この場所に上屋敷を与えられる大名は老中職を務める家 格の者で、老中に就任すると西丸下(現皇居外苑)の官邸に移転する。 公儀作成の『沿革図」では井上(報告者注〜井伊の誤りか?)、松平、酒井、堀田家などが記載さ れている。この絵の発行当時は堀田備中守(佐倉)邸にあたる時期だが、同家も 井伊家同様徳川とは縁組はしていない。それゆえこの赤門は広重の作画上の色彩 の趣向だったようである。」(p199) つまり、堀田家の門は現実には赤門ではなかったが、広重が色彩の必要上赤色に 塗ったのであろうという話で、あまり面白くはありませんが、ご参考までにお知らせします。 4月29日 えりっぷさんからメールあり ご存知のことと思いますが、「佐倉市史研究第22号」が出ました。市内の図書館でご覧になれます。 「特集「佐倉市史」考古編の編さんに着手」です。 興味のある方は是非ご覧下さい。 4月27日 佐倉本情報 情報紙『マネジメントスクエア(MANAGEMENT SQUARE)』(ちばぎん総合研究所 2009年4月) 「房総をゆく佐倉市・四街道市」として、4頁〜13頁にわたって紹介されています。 『ちば環境学習”水”ハンドブック 印旛沼・三番瀬』(環境パートナーシップちば 2009年3月) 印旛沼の写真を提供しています。満開佐倉文庫では、ウェブページに掲載した壁紙用の写真を研究書や論文に使用するにあたって、便宜をはかっています。 これも、文庫の電子図書館サービスの一つだと考えています。 4月23日 節の介さんからメールあり 皆さんの連休中の調査研究の参考情報として連絡します。 国立公文書館のアジア歴史資料センター(アジ歴)で 近代の歴史資料にアクセスできます。 こちら 「佐倉」を検索すると約1000件ヒットします。 佐倉丸、佐倉城、佐倉町、印旛郡などで絞り込んだり、松本順などの人物探しも出来ます。 多くが陸軍の資料ですが、思いがけない情報に出会えるかも知れません。 私の基礎知識が乏しいので、お宝情報に接していたとしても その価値がわからないままスルーしてしまいそうです。皆さんに閲覧していただいたら何か見つかりそうなので WEB閲覧サイトがあることをご紹介する次第です。 <返信> ありがとうございます。私も連休中に少し整理したいものがありますので参考とさせていただきます。 4月16日 えりっぷさんからメールあり 『復刊ドットコム奮戦記』(2005年8月 築地書館) 「復刊にまつわるエピソード」197Pから「高橋真琴先生のギャラリー」の項目に、 「千葉県の佐倉市に『真琴画廊』という小さなギャラリーがあります。こここそが、美しい少女絵の世界を描かれる高橋真琴先生の本拠地なのです。 (以下略)」とあります。2004年「おひめさまえほん」復刊されたことに関してのことが書かれてました。 〈返信〉 ありがとうございました。 4月13日 T2さんからメールあり ご無沙汰しております。明治になって士族授産事業としてつくられた佐倉相済社を検索していたら、下記のアドレスで「千葉県佐倉城下町の変貌とその地域的特質」と 題したお茶の水女子大学生のレポートにぶつかりました。 もう17年前のレポートで、すでにご存じかも知れませんがお知らせします。 こちら 〈返信〉 ご無沙汰しております。ありがとうございました。 4月12日 佐倉本情報 雑誌『美術屋百兵衛 浅井忠さんを勉強しませんか』(2009年4月 500円 麗人社) 佐倉に関した話題(浅井忠、歴博、旧堀田邸、武家屋敷、佐倉順天堂記念館、川村記念美術館、佐倉市立美術館)が、16頁〜63頁にわたって 紹介されています。たいへんに読みやすい本です。ご覧ください。 3月13日 T3さんから佐倉本情報 宗任雅子『苦いカリス 小説・原主水』(三一書房 2005年2月 1800円) 原主水は、元臼井城主原胤義の嫡男でキリシタンに帰依した人物です。あとがきに、原主水の彫像は静岡教会にあるそうです。 図録『生誕100年 山川惣治展―少年王者・少年ケニアのいた昭和』(佐倉市立美術館 2009年) 山川惣治氏は晩年を佐倉で過ごしています。「緑多い佐倉が気に入っていたようで、自らを「老年ケニア」と称して未開発の森を孫たちとともに散策した。」 とあります。(36頁) この原著は、『山川惣治「少年王者」「少年ケニア」の絵物語作家」』だそうで、注文する。 情報誌『春ぴあ プレミアム2009 首都圏版』(ぴあ 2009年4月) 千葉県では「佐倉・臼井」が紹介されています。 3月8日 Mさんからメールあり 安井小太郎『日本儒学史』の再読で、見つけた佐倉情報を書いておきます。 林述齋の項に、佐倉藩の儒者である渋井太室の佐倉藩推挙は林家から出たことだと書かれていました。 佐倉侯が渋谷の下屋敷に聖像を安置したときに釈菜の方が分からなかったので門人の推挙を依頼して来たので林述齋の師である渋井太室を推したとありました。 亦、「日本朱子学学統表」に、古賀精里−古賀?庵−古賀茶渓−依田学海、古賀精里−朝倉簡堂−小永井小舟と出ていました。 依田学海は昌平黌に学んだことがあったのでしょうか。 杉本邦子著『明治の文芸雑誌』(明治書院)ですが、読み進めていましたら『都の花』の説明文に藤本藤陰(蔭)情報がありました。 乃ち、三十九号(明治23.5)以降は、印刷人として「藤本真(藤陰)と交替する」とありました。『都の花』は金港社発行の雑誌で、編集人は香亭中根淑です。 杉本邦子は藤本真と藤本藤陰(蔭)を同一人物であると見做しています。この典拠を是非とも尋ねたい所です。 <返信> 依田学海は昌平黌で学んでいません。藤本真・藤本藤陰(蔭)は佐倉にゆかりのある人として追っている人物です。何か情報がありましたらお寄せください。 3月3日 節の介さんからメールあり 佐倉の「保存樹」に関する情報です。 「佐倉の巨木を訪ねて」森林と巨木を訪ねる会(2003年3月) 市内の樹齢100年以上の巨木について、樹齢、樹高、幹回り、所在地とともに、 カラー写真を添えた説明がされいます。 2月28日 佐倉本情報 佐々木譲『警官の血』上巻(新潮社 2007年)購入。 「連隊は?」「佐倉であります。歩兵五十七連隊」「第一師団か。というと、戦地は?」「フィリピンでした。レイテから復員しました」 藤澤衛彦『小唄伝説集』(東洋書院 2008年)購入。 印旛のやんれ節が掲載されている。「天保14年(1843)、土地の重郎兵衛は、時の閣老水野越前守が計画した第三回目の印旛沼開墾工事が 廃絶せらるる最初において、こうしたヤンレ節の小唄を作り出して翌年工事の継続を期待してけれども、ついにまたそのことなくして止んだ。」 2月16日 本のガイドブックをいろいろよんで勉強中なのですが、そのなかで見つけたものをお知らせしておきます。 坪内祐三著、文藝春秋社平成16年刊「文庫福袋」の73Pの「石田波郷『江東歳時記/清瀬村(抄)』」の本の説明のなかで 「俳人として既に名を知られていた波郷は満三十歳の昭和十八年九月、千葉の佐倉連隊に入隊し、同年十月華北に渡る」とありました。以上ご報告まで。 2月14日 逆ハンドルさんからメールあり この週末珍しくテレビドラマを見てしまったのです。もう、ご存知かも知れません。佐々木譲原作「警官の血」というテレビ朝日50周年ドラマです。 ストーリですが、戦後元兵士が警官になり、その子・孫併せて3代にわたる警官一家の物語。孫が祖父のカタキをとる、大変重苦しい内容でした。 その冒頭、同じく警官になったレイテ帰りの元兵士で友人・早瀬勇三の台詞で。「佐倉。57連隊であります」が出てきます。レイテ帰還なら当然の設定なんですけど。 原作を読んでみようと思いました。 2月13日 伊藤整著『日本文壇史 2』(講談社)で硯友社を当たっていたら、面白い記事を見つけました。 依田学海のところに幸田露伴が「露団々」を持参した時、学海が軽くあしらおうとしたら癇癖が強い青年露伴は「僕は羊頭をかかげて狗肉を売る者ではありません」と文句を言ったと言います。 明治二十一年の暮れの『学海日録』に露伴は登場するでしょうか。この巻には、森鴎外が学海の書斎で学海が「金瓶梅」を隠すところを見ていますし、 この家の少女が「先生のお召使ひですよ」と母親に教えられる場面も出ていました。 藤沢衛彦著『小唄伝説集』(東洋書院)を読んでいたら、「印旛のやんれ節」が出てきました。今でも歌われているのでしょうか。 「天下サアエエ、天下泰平めでたい御代に、古今稀なる掘割話、国は下総印旛の郡、佐倉御城下の北利根川よ、印旛沼とて其名も高き、云々」で始まります。 「頃は天保二七の秋よ」とありますから、どうやら老中水野忠邦が計画した天保十四年の印旛沼開墾工事のことを歌っているようです。この工事は難工事でとん挫したようで、 最後は「西や東へわかれてかえる。ヤンレー」で終わります。この開墾工事に関しての本は、鏑木行廣著『天保改革と印旛沼普請』という図書が出ているようですが、この唄について言及されているのでしょうか。 『小唄伝説集』は去年十一月の再刊ですが、元版の出版は千九百二十年のようです。 最後に、杉村悦郎・杉村和紀編著『新撰組永倉新八のひ孫がつくった本』(柏艪舎)を読んだら、杉村悦郎の日記に松本良順の嗣子である松本本松という人の名が出ていました。 亦、良順の子孫は東京池袋に在住だとも書いていました。別な箇所に、良順の子孫である松本_太が子供だった時松本宅に永倉新八が尋ねて来た事を覚えているという伝聞を書いていました。 〈返信〉 「印旛のやんれ節」、少し記憶がありますが、確かめてみます。ただ、資料がどこにいったやら不安です。鏑木氏は取り上げていません。 森鴎外の件、「ヰタ・セクスアリス」に描かれています。 2月10日 節の介さんからメールあり 国会図書館の近代デジタルライブラリーに 大正期の資料の追加が2008年8月に行われており、 次の資料も閲覧できました。 既に、鉄道分野の司書さんがお読みになっているのかも 知れませんが連絡します。 植田啓次編 『成田鉄道案内』(1916年 鉄道世界社) 成田鉄道株式会社の 我孫子−成田−佐原、成田−佐倉の沿線の駅ごとに 何ヵ所かの名所、史跡等が紹介されています。 70,71コマ目に 佐倉町及其附近の記述があり。 佐倉町、佐倉城址、将門山古城址、甚大寺、官公署学校会社等が とり上げられています。 なお、甚大寺の説明文中には、開国の功は伊井氏ではなく堀田氏に帰すべき である、と書かれています。 77コマ目に 「印旛郡佐倉町裏新町 御料理 花家 電話十六番」と広告が出ています。 1月27日 情報提供 『日本近代文学大系 第60巻 近代文学回想集』(1973年2月 角川書店)に収められている江見水陰の「自己中心明治文壇史(抄)」に、 「硯友社中には『我楽多文庫』時代に立花屋薫(故法学士、弁護士、渡邊輝之助―佐倉の人)といふ脚本家がゐて二三の戯曲を発表して居り、 又『文庫』に成ってからも、漁山人(医学士多田寛)が有って『積雪節松枝』を発表してゐる。この二先輩が在るにも関わらず、尾崎が 自分を硯友座の立作者に抜擢したに就ては感激せずにはゐられなかった。」(243P)とあります。 また新しい佐倉の人、発見です。立花屋薫、本名は渡邊輝之助というのでしょう。情報をお待ちしています。 1月23日 節の介さんからメールあり 佐倉市立美術館で2月に、山川惣治の生誕100年を記念して山川惣治展が開催されるそうですね。 山川惣治は、晩年に佐倉に転居し作品を描かれたそうなので関連する本を2冊紹介します。 (1)三谷薫、中村圭子編『山川惣治 「少年王者」「少年ケニヤ」の絵物語作家』(2008年3月 河出書房新社) 戦前、戦後の主要な作品が紹介されています。巻末には、山川惣治書誌1926-1988があり、メールでは紹介しきれない量の作品が列挙されています。 佐倉市に関する記述は次の通りです。 P112 「晩年の作品」山川惣治は最晩年まで絵を描きつづけた。 山川は昭和六二年(一九八七)頃、長男一家とともに千葉県の佐倉市に移り住んだが、同市在住のイラストレーター高橋真琴と平成四年(一九九二)二人展 を開催して、新作を発表した。(略) (2)中村圭子編『昭和美少年手帖』(2003年6月 河出書房新社) 昭和初期の少年・少女雑誌のなかに描かれた挿絵の美少年を紹介した本で、5人の作家の作品に登場した美少年が集められています。 P78-93に山川惣治の作品があり、「少年ケニヤ」のワタル少年、「少年タイガー」の森山進治、「少年王者」の牧村真吾の各場面が掲載されています。 1月22日 佐倉本情報 井上靖監修 秦恒平編『古美術読本(二) 書蹟』(2006年7月 光文社) 173Pに 井上靖が「我が家の『蘭疇』」という随筆を書いています。蘭疇とは、松本順の号です。 1月11日 節の介さんからメールあり 元旦の遠州佐倉駅の記事、興味深く拝見しました。関連情報として次の本を手にしました。 阿形 昭『軽便の思い出 日本一の軽便鉄道・静岡鉄道駿遠線』(2005年4月 静岡新聞社) 「第1章 軽便の思い出 50話」の中で 「佐倉の駅は、スーパーマーケットのある辺りにあった。そのちょっと西は 道路がかなり高いところにあって、軽便は下の方の線路をのどかに走っていた。」(P39) (写真が挿入されています:草原に小さなプラットホーム。周辺に駅舎も民家も写っ ていません) 写真の説明文・・・戦後開通した遠州佐倉駅 撮影:石川勝久 遠州佐倉駅 桜ヶ池↓ 昭和39年9月26日 (節の介の注記 「↓」は下向きではなく、右斜め下向きです。鉄道写真の表記ルー ルでしょうか。撮影日は廃線当日ですね) 「第3章 廃線跡をたどって」の中で 「斉藤商会の手前に玄保駅があった。そして、ゆるやかな上り坂をずっと上っていく と、フレッシュマート魚政というスーパーがある。そのスーパーと小野沢医院が 遠州佐倉駅があった場所。 佐倉公民館や民宿たけゆうの前を通り、ずっと進む。右手に鉄塔が二つ見えてく る。その鉄塔の所から左の細い道を入る。廃線跡は青い屋根のアパートの所まで。 左の山裾を走っていた。土盛りの築堤になっていたが、今は痕跡が残っていない。 廃線跡を探すことは、むずかしい。」(P110) とありました。 1月8日 節の介さんからメールあり あけましておめでとうございます。 高山正也 植松貞夫 監修 新・図書館学シリーズ6 原田 智子、江草 由佳、小山 憲司、澤井 清 共著『三訂 情報検索演習』(2006年10月 樹村房) P100に次の記述があります。 【検索問題-1】江国香織と辻仁成の共著で書かれた図書を検索したい。 (略) 【検索問題-3】内田儀久(うちだよしひさ)の書いた『電子図書館』を所蔵している都内の大学図書館を知りたい。 <返信> 当文庫が演習問題に使われるとは、ありがたいですね。採用してくださった先生方に感謝します。 トップページ |