佐倉本情報 佐倉本は、小説、雑誌、同人誌などに佐倉が一文字でも出てくる冊子の総称です。 【図書の紹介にあたって】 図書を紹介するにあたっては、著者、題名、発行年、出版社を記入するほか、佐倉が出てくる部分を一部引用しています。これは、題名だけでは図書の内容がわからないため、利用者が図書を選ぶにあたっての目安としていただきたいと考えたからです。 引用にあたっては、掲載した文章の誤字、脱字もあろうかと思うので、利用者は原著を読み、原著から引用をしていただきたいと考えています。 また、引用部分は文庫で判断したため、著者の納得いただける引用部分ではないかも知れませんが、なにとぞ趣旨をご理解いただきたく、お願いいたします。 【2008年1月1日〜 】 12月28日 佐倉本情報 佐倉地名研究会『多輪免喜』和田の地名 第4号 (2008年9月) 12月13日 佐倉本情報 佐倉市にお住まいの清澤瞳子さんがエッセイ『花ばーじょん』(2009年1月15日 1200円 文芸社)を刊行しました。花にまつわるお話です。 12月5日 すなふきんさんからメールあり ご無沙汰しています。久しぶりに佐倉本情報をメールします。 何気なく手に取った本に「佐倉」とあって、びっくりした本です。 『DIYで楽しむ!イルミネーション入門BOOK』(2007年11月 学研) バラバラ見ていたら、突然、佐倉市の個人宅のイルミネーションの様子が2件、見開きで紹介されていました。 『日本の外来生物』(2008年4月 平凡社) 印旛沼のカミツキガメについての記述が、ちょっと載っています。 内容的には、どうということはないのですが、「思わぬ出会い、これぞ醍醐味」と思う日々です。 〈返信〉 ありがとうございました。佐倉本探し、楽しそうですね。これからも、よろしくお願いします。 11月18日 M3さんから佐倉本情報 池波正太郎『卜伝最後の旅』に収録された「南部鬼屋敷」で、 「下総・佐倉十万石堀田正信」の名前がでてきます。 主人公は正信から養子を迎えたが、早世してしまった。しかし、その後も親交があった・・・といった内容でした。 〈返信〉 ありがとうございました。 11月17日 佐倉本情報 栃木県にさくら市が誕生したのは2005年。塩谷郡氏家町・喜連川町が新設合併して誕生した。 この旧氏家町に佐倉藩領がありました。 氏家町史作成委員会編『氏家町史』上巻(1983年3月 氏家町) 「寛延3年(1750)2月4日、宇都宮領の内、68カ村は佐倉領(堀田相模守)に変更となり、桜野村に陣屋を置き、安永4年(1775)までの25年間佐倉領となった。 (略)佐倉領陣屋は、桜野村の清兵衛の屋敷の裏側に間口50間、縦60間の場所を提供させて設営し、8月14日に完成した。 (略)桜野陣屋には佐倉より代官2名、勘定方、徒目付、下目付、手代、門番などの役人が出張して行政を担当していた。 堀田相模守正亮は徳川家光に殉死した堀田正盛の三男正俊の孫で、山形より十万石で佐倉藩主となる。 (略)宇都宮領内の塩谷郡のうち57カ村が佐倉領となり、氏家町では桜野村、押上村、松山村、松山新田村、狭間田村、狭間田新田村、谷中新田村、根本新田村、 柿木沢などが桜野陣屋に支配された。 佐倉藩は宇都宮藩より善政を行ったのか、塩谷町大宮の諸杉に堀田相模守の仁政の碑がある。高さ90センチメートル、幅31センチメートルの安山岩の石碑の 正面には『堀田相模守様』と筆太に刻まれている」(246P) とあります。 栃木県さくら市と佐倉市は関係があったんですね。新しい発見です。 11月14日 佐倉本情報 国分寺町史編さん委員会編『国分寺町史』(2003年) 下野市は、平成18年1月、河内郡南河内町、下都賀郡石橋町及び同郡国分寺町が合併して誕生しました。 この旧国分寺町に江戸時代、佐倉藩領がありました。 595P〜626Pにかけて佐倉藩のことが書かれています。 佐倉藩の下野支配、佐倉藩領の推移、佐倉藩の下野領支配機構、佐倉藩下野領の一年、小金井陣屋、 佐倉藩下野領と藩役人、佐倉藩役人の下野領出役、日光法会・社参と佐倉藩下野領、盗難事件と佐倉藩、佐倉藩天保改革と下野領、 勧農方と教諭書、小金井宿の強訴事件、火事と佐倉藩、殺人事件 幕末の佐倉藩下野領(597P) 〔都賀〕 宮田村(栃木市)、平井村(栃木市)、升塚村(都賀町)、半田村(栗野町)、下沢村(鹿沼市)、笹原田村(鹿沼市)、上別所村(鹿沼市)、 下茂呂村(鹿沼市)、上茂呂村(鹿沼市)、羽生田村(壬生町)、下石橋村(石橋町)、小金井宿(国分寺町)、笹原田新田(国分寺町)、 東赤麻村(藤岡町)、太田村(藤岡町)、大前村(藤岡町) 〔塩谷〕 下柏崎村(高根沢町)、安沢村(矢板市)、後岡村(矢板市)、中村(矢板市)、針生村(矢板市)、冨田村(矢板市)、下太田村(矢板市)、 西太田市(矢板市)、上太田村(矢板市)、矢板村(矢板市)(『旧高旧領取調帳』より作成とあります。) 以上が佐倉藩領です。こうしてみると、『矢板市史』『鹿沼市史』にも佐倉藩のことが出ているかも知れませんね。 11月8日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 日本城郭協会監修『歴史群像シリーズ 日本100名城公式ガイドブック』(2007年7月 学習研究社) P63に佐倉城が掲載されています。 なお、2006年3月29日の日記によりますと、選定資料をお探しとのことですが、 P12〜P15に、選定にあたっての説明がなされています。 〈返信〉 ありがとうございました。 11月4日 本日、Uさんから教えていただいた新野剛志『罰』(2002年 幻冬社)を購入しました。 それから、佐藤洋二郎『福猫小判夏まつり』(2003年 講談社)購入。「眼下に昔は印旛沼だったという水田地帯が広がり、その中を 小川が蛇行して流れ」(68P) 「あれが印旛沼で、その先の町が成田」(71P) とあります。文章の流れから、北印旛沼と思われます。 11月1日 節の介さんから佐倉の記事情報です。 情報紙『すたっと』2008年11/12月号(高千穂ネットワーク) P6−P7 「開国150周年と佐倉」で、11月と12月に行われる記念事業を紹介 P15 「すたっと歩こう!北総三都物語」で、「城下町・佐倉」で、歴史と文化のまちを体感 と題して佐倉の武家屋敷、ひよどり坂、堀田正睦像、ハリス像、 佐倉観光循環バス、歴博、などを紹介 〈返信〉 ありがとうございました。 10月31日 Uさんから佐倉本情報のメールあり お久し振りです。今回はミステリー本の紹介です。 今から6年前に発表された作品なので、あるいはもう読まれているかもしれません。 新野剛志『罰』(幻冬社) 成田空港近くのツーリスト・パーキングに勤める男が主人公。佐倉の地名は2度ほどしか出てきませんが、 よくできた小説だと思います。空港近くの地形もよく書き込まれています。 ミステリーというよりも、ハードボイルドといった方がいいかもしれませんが、面白くて一気に読める本です。 作者の新野さんは江戸川乱歩賞の作家です。 〈返信〉 ありがとうございました。 10月19日 節の介さんから佐倉情報あり 次の資料(1695年)に、佐倉蒟蒻の記述があります。 人見必大 島田勇雄訳注『本朝食鑑』巻1 東洋文庫296(1976年 平凡社) P210-211 蒟蒻 〔集解〕 −略−。江都では、総州鍋山の産が佳いものである。また、 佐倉の産というのは、色が黒く略粗である。初めに灰汁で 煮る時、石灰少々を加えるのでそうなるという。味もやはり 殊にして、佳とするには足らぬものである。 〈返信〉 ありがとうございました。 10月18日 佐倉本情報 情報誌『ゆとり』2008年 秋冬号 NO.51(2008年 京葉銀行) 特集歴史の舞台を行く「日米修好通商条約150年 佐倉藩主堀田正睦と佐倉」(12P〜17P)が掲載されています。 10月12日 K3さんから佐倉本情報あり 森鴎外『即興詩人』森鴎外全集10(1995年12月 筑摩書房) アンゼルセンの小説を森鴎外が翻訳した作品。翻訳に9年の歳月を費やした。この序文は「明治35年7月7日下志津陣営に於いて」書かれたとあります。 当時、鴎外は軍職の身にあり、原稿は大抵夜間、もしくは大祭日、日曜日にして家にあり、客がこないときに書いたものと記しています。 〈返信〉 下志津は陸軍の軍用地で、砲兵の射撃訓練に使われていました。その関係で、鴎外は下志津を訪れたのでしょう。 10月4日 佐倉本情報 虫明功臣・白鳥孝治・本橋敬之助監修『印旛沼流域情報マップ―治水・利水編―』(2007年3月 千葉県企画 印旛地域整備センター成田事務所発行) わかりやすく、便利な1冊。印旛沼を知るなら、この1冊。 印旛沼のなりたち、印旛沼の概要、水害との戦い、印旛沼開発事業の経過、印旛沼の漁場、かつての治水対策、 利根川の流れの変化が年号で記されている、水位の変化、水害年表などの数字が細かに記されており、使えます。 9月24日 Eさんからメールあり 佐倉市の道路元標について教えてください。 <返信> 渡邊義本『道路元標を追って 〜千葉県の北部(北総)地域を歩いて〜』(2008年7月)に詳しいです。 「道路元標とは、大正8年に制定された道路法に基づき定められた道路の附属物で道路の計画と管理の基準点とも言える標石で、 道路の起点・終点又は経過地点を明示する標識として概ね各町村に1カ所建てたもので、その位置は『第八条 二 市町村に於ける 道路元標の位置は前項に規定するものの外都道府県知事之を定む』として都道府県知事が定めこれを県報に告示した。」(17P) 「戦後の27年に現行の道路法が制定された。この法によって道路元標はその存在を失ったと言える。加えて、昭和29年の町村合併に より市町村名が替わったことによる消滅や道路拡張等によって破棄されたりと云ったものもある。」(1P) 佐倉市において現存する道路元標 佐倉町道路元標(佐倉市美術館前通り 麻賀多神社 新町交差点) 臼井町道路元標(成田街道 臼井田中宿交差点) 根郷村道路元標(藤治台入口付近 旧根郷役場跡) 志津村道路元標(市立志津小学校入口 上座消防器具庫前交差点)(12P) 以上、『道路元標を追って 〜千葉県の北部(北総)地域を歩いて〜』から引用させていただきました。詳しくは本書をご覧ください。 9月19日 駕篭舁さんから佐倉本情報のメールあり 古川薫 『斜陽に立つ』 (2008年5月 毎日新聞社) 全文中1箇所だけですが、「佐倉」の名が出てきました。 p201に 「源太郎(児玉)は東京鎮台第二連隊長兼佐倉営所司令に任じられた」とあります。 明治14年春、当時第一連隊長の乃木希典に対して、第二連隊が対抗演習を挑んで、 習志野の陸軍演習場で行なわれた記事の中にありました。 <返信> お久しぶりです。情報、ありがとうございました。 9月18日 佐倉本情報 原田康子『風の砦 (上)』(1987年2月 新潮文庫) 「『かれこれ着く時分だ。堀田備中守の家中だ。大筒方も一人来る』『備中守なら外国掛りだな』 下総佐倉藩主・堀田備中守は、外国掛りの老中である。その藩士三名が、蝦夷地を見てまわっていることは、先触れがあってわかっていた。 藩主が外国掛りなので、幕府の直轄となった蝦夷地の視察に、藩士を出したのかもしれない。 『佐倉にどんな砲がある』と、香織は言った。『佐倉の砲も玩具さ。日本国は玩具の大砲だらけだ』運平は笑うと、『しかし、見聞とは気楽なものだな』」(186,187P) 9月16日 Sさんから佐倉本情報あり 隆慶一郎『花と火の帝』(1993年9月 講談社文庫)ISBN4-06-185495-X 「花と火の帝」は、「天皇の隠密」として活動する主人公たちが、後水尾天皇を中心とした禁裏を守るために奮闘する物語です。 下記のシーンは、主人公の仲間になり天皇の隠密としてその腕を奮うようになった猿飛佐助と霧隠才蔵のコンビが、狩りの最中の大御所家康を脅そうとするエピソード中に出てきます(暗殺のほうが簡単だが、天皇が血を流すことを厭い、「誰も殺してはならん」と命を下すという設定のため)。 P376 「また翌十六日には、秀忠自身が船橋まで行ったと録されている。土井利勝の所領は佐倉である。そこで鹿猟をするためと書かれているが、これも怪しいものだ。家康の護衛をふやすと同時にすみやかな江戸城帰還を説得するためではないか。」 P377 「実のところ船橋では、この二十日頃から秘かな異変が起っていた。秀忠が佐倉へ去った後である。 本来なら格別の警戒中のことだから早速その筋に届けられるべき出来事だったのだが、そうはいかない事情があった。」 P379 「家康はさすがに稀代の『いくさ人』だった。素早く宿を出ると街道を避け、畑の中に方陣を組んだ。当初五十人に過ぎなかった供侍は、 藤堂藩伊賀衆の来着によって倍の百人にふくれ上がっている。おまけに佐倉藩からの警固役人も三十人はいた。これだけの人数が方陣を組み、 鉄砲を揃えて待ち伏せられては、刺客たちに手が出せるわけがなかった。」 <返信> ありがとうございました。 9月6日 節の介さんよりメールあり 既報(2008年7月22日:佐倉本情報)にて、「佐倉藩の西勝郎」の記載情報を連絡しましたが、 その後、調べた結果、次のことが分かりましたので連絡します。 『高島嘉右衛門自叙伝』(編:石渡道助、実業之横浜社1917年)を 見ると、P95に「・・・横濱無宿の勝郎といひ、もと佐倉藩物頭西村某の 二男なりと答ふ。」と記載されており、「西村勝郎」のことでした。 なお、『西村勝三の生涯』(昭和43年3月発行)によると、牢獄に入ったことや、 名前を三平、勝郎、勝三と名前を変えていったことが記載されており、 この西村勝郎は、後の西村勝三であることが分かりました。 (「高島嘉右衛門自叙伝」の記載では二男とありますが、実際は三男です) <返信> ありがとうございました。 8月31日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 川口素生『江戸諸藩中興の祖』(2005年1月 河出書房新社) 諸藩の大名38名をとりあげて、それぞれの業績を紹介しており、P232-236に 堀田正睦(下総佐倉藩)日米修好通商条約締結や順天堂開設に骨身を削る と題して記述があります。 <返信> ありがとうございました。 8月25日 sさんから佐倉本情報 さいとう・たかお 漫画『新田次郎原作 武田信玄 4・山の巻』(1993年8月 文藝春秋) 「(北条)氏照と(北条)氏邦からの報せによると、檄に応じて馳せ参じたのは、忍衆、深谷衆、臼井衆、佐倉衆、」(87P) 「臼井衆、佐倉衆、小金衆に申し上げる」(97P) と、ありました。佐倉、臼井にいた武将が小田原の北条氏に加担したときの話です。漫画も差し上げます。 8月24日 佐倉本情報 渡邊義本『道路元標を追って 千葉県北部(北総)地域を歩いて』(2008年7月) 道路元標とは、大正8年に制定された道路法に基づき定められた道路の附属物です。 元標は道路の計画と管理の基準点ともいえる標石で、道路の 起点・終点または経過地点を明示する標識として概ね各町村に1か所建てたものです。 現在、佐倉町、臼井町、志津村、根郷村の道路元標が残っており、紹介されています。 8月23日 駕篭舁さんから佐倉本情報のメールあり とりたてて新しい記事ではありませんが、最近刊行された本の記事に松本良順と林董が出ていましたので お知らせしておきます。 野口武彦『幕末不戦派軍記』(2008年2月 講談社) 彰義隊の巻に「若松では藩校日新館の一部を病院にしてあり、幕府の西洋医学所頭取だった松本良順が江戸を脱出して来て滞在中で、 会津藩の負傷兵の治療に当っていた。良順が来るまでの村医者による療治は原始的もいいところで、あたかも・・・・・」とあります。(139P) また、蝦夷共和国の巻に、清国駐箚公使になった林董がその模様を後にこう語っている。「箱舘の官軍の方からは、病院の高松君(凌雲) を紹介して、鮪五尾と酒樽二つを送って来た。(中略)兵は皆五稜郭に固まって居ったのが、鮪五尾と酒樽二つで 軟化してしまった。・・・・(史談会速記録)」(246P) P248に、「林董が点呼のためラッパを吹いて兵士を集めたら、せいぜい二百人ぐらいだろうと思っていた予想に反して、多人数がゾロゾロ現れて投降した。」とあります。 <返信> ありがとうございました。 7月22日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 『千葉医療センターニュース』Vo1.33 2008.4が 発行され、P8にAnectodaが連載されています。 「Anectoda(20) −隠れた史実−」 高澤 博 今回は、佐倉に関係する人物の記述が1箇所有ります。 (三瀬周三が文久2年4月16日佃島に投獄されたことについての説明文章中で) 「 獄中知り合った囚徒として、高島嘉右衛門(後に高島易開祖)、 佐倉藩の西勝郎がいた。」 「西勝郎」は、初めて知った名前です。 どのような方なのか、ご存知でしょうか。 7月21日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 中嶋繁雄『物語 大江戸牢屋敷』文春新書157(平成13年2月 文藝春秋) (高島嘉兵衛(後の嘉右衛門)の石川島人足寄場での話:文久2年(1862年)) かれはこの寄場で、二人の知己にめぐまれる。 一人は横浜無宿勝郎といわれる人物。元佐倉藩士の子に 生まれるが同輩と相いれず、佐倉藩の分家足利家に転じた。 しかし幕末転変の時節、思うところがあったのか、武士を 捨てて横浜の商人の許に身を投ずる。そこで横浜支店を あずかるが、中国人との密貿易の嫌疑によって逮捕され、 石川島人足寄場に収容される。(P213) 高木 彬光『大予言者の秘密 易聖・高島嘉右衛門の生涯』カッパ・ブックス(昭和54年7月 光文社) (高島嘉兵衛(後の嘉右衛門)の伝馬町の牢での会話の相手:万延元年(1860年)) 「私ですか。横浜無宿の勝郎−と言いますが、実はれっきとした 侍の息子ですよ。あなたは小判を外人に売った罪だと言いましたね。 私のほうも国禁をおかして朱を売った。まあ似たようなものですな」(P135) (高島嘉兵衛(後の嘉右衛門)の佃島の牢での話:文久2年(1862年)) この島へ流されて二日後に、例の勝郎が訪ねて来た。彼は伝馬町の ご牢からまっすぐここへ送られていたのである。 その身上話は前に嘉兵衛も聞いていた。もとは下野国一万石足利の堀田家の家老の息子だったが、これからは 武士の時代ではないと悟りをひらき、家をとび出して横浜へ行き、岡田 平蔵という商人の家に客分待遇で住みこんだのである。平蔵も彼の商才を 見ぬいて支店をまかせたが、朱の取引をやりすぎて捕われの身と なったのだった。(P156) 勝郎もその後間もなく放免された。彼はその後、嘉兵衛の番頭格となって、 横浜港の埋め立てに尽力し後に官職につくものだが、不幸にして労咳−いまでいう 肺結核にかかって、五十三で世を去った。横浜市史を調べてみても、彼の名前は 出てこないが、それも横浜当時には嘉兵衛の脇役的な存在だったからだろう。(P165) 発行が後である中嶋の記述内容は、単に高木の記述だけを読んだだけでは 書けないものであり、両者が参考にしている別の本があるようです。 高木の記述と「西村勝三の生涯」の内容との一致と不一致を整理すると 次の通りです。 一致 勝郎:(生涯)成年後は勝郎といった。勝三と改めたのは維新以後。 堀田家の家老:(生涯)附家老、 朱の密売、伝馬町の牢:(生涯)朱の密売で小伝馬町の獄に入れられた。 岡田平蔵との関わり:(生涯)岡田平蔵所属の書記役 不一致 伝馬町1860年:(生涯)文久2年9月(1862年) 佃島1862年:(生涯)石川島人足置寄場文久3年(1863年) 朱の密売に対する謹慎中に銃器売買に従事せる罪 官職につく:(生涯)民間の経営者 労咳で五十三で世を去った:(生涯)72歳 胃腸。 弟の綾部平輔は51歳で病死。 末弟の西村勝郎(はじめは平五郎)は34歳で病死。 <返信> 長文の引用、ごくろうさまでした。 7月20日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり。 土居 紀夫『日本の誇り明治の七人―その立志のものがたり』(2006年10月 文芸社) 青少年向けの講話形式の内容で、 P100-127に第四話 津田梅子「近代日本の女子教育に生涯を捧げた」 収録されています。 松邨 賀太『明治文明開化の花々 日本留学生列伝3』(2004年3月 文芸社) 明治時代の4名の女子留学生について紹介したもので、第1章 津田梅子(P9-69)です。 <返信> ありがとうございました。 7月9日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 礫川 全次『知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男』(2006年11月 平凡社新書)津田仙の名前が出ています。 「通弁方・津田仙弥の提案で英書類を購入し持ち帰ることになり、」(P81) 「そこで自然、書記官の仕事は通訳の津田仙弥に行き、」(P83) <返信> ありがとうございました。 7月7日 節の介さんから佐倉関係資料をいただく 以前、御前崎佐倉との関係で、『桜ヶ池宮神社考』(昭和53年9月20日発行 桜ヶ池池宮神社)の紹介がありました。 〔この本に「敏達天皇の3人の皇子が、3兄弟を伴って都を出、長兄が現在の岩手県大船渡市へ、中兄が千葉県佐倉市へ、弟が静岡県御前崎市へと住み着き、いずれにも「佐倉」という地名ある」という伝承が記載されています。 伝承を確かめるため明治21年に当時の池宮神社宮司が、岩手県の当時の「気仙郡役所」に照会状を出しており、その返答に「佐倉」の地に子孫らしき人を発見したとの書簡が送られてきたとの記録があるとのことです。 同様に千葉県にも照会したところ、こちらは不明だったようです。〕(御前崎市佐倉の項目参照) このことについて、岩手日報社編『いわて歴史散歩』(1998年12月)に少し情報がありました。 「池宮神社の宮司水野田面から盛町役場に『敏達天皇の第一皇子尾張が気仙沼佐倉里(さくらり)に下ったという文書が残っている。そちらに佐倉の地名や社はあるか。従者の子孫は続いているか』という 照会状が届いた。佐倉里は盛の古称。詳細を尋ねると『三人の皇子が陸奥、上総(千葉)、遠江(静岡)に下向した』(略)などの文書の内容が伝えられた。」とあります。 <二人で> わが佐倉とのつながりが、今一つ特定できませんね。 7月4日 森史朗『松本清張への召集令状』(2008年3月 文藝春秋)を読む。 松本清張に『遠い接近』という推理小説がある。これは主人公である山尾信治が教育召集によって佐倉にあった歩兵第57連隊に入隊し、そのまま本召集となり、朝鮮に動員される。 そして、ニューギニア方面に派遣されるのではないかという心配をしながら終戦となる。 山尾への召集令状であるが、普段、町内会の教練にあまり参加しなかったところから「ハンドウを回された」と みなされ、区役所の兵事係長によって故意に選ばれたと考える。その復讐である。 当時、東京に住んでいた人も57連隊に入営しているが、動員されるところは満洲の孫吾であった。その後、レイテである。森史朗氏は、清張が、その辺のストーリをどのように組み立てたのかを考察している。 清張は、臨時召集として久留米の第86師団歩兵第187連隊に入隊し、朝鮮に動員となった。つまり、小説の連隊名は57連隊であるが、実際の連隊行動は187連隊を記しているといえる。 本書を読んだあと、ふたたび『遠い接近』を読みなおした。『遠い接近』では、57連隊に入隊した初年兵のことが綴られるが、これも187連隊のことであったといえる。また、佐倉連隊という言葉がよく 出てきており、これはりっぱな佐倉本と言える。 7月3日 スナフキンさんから佐倉本情報のメールあり ご無沙汰しております。すでにご存知かもしれませんが、参考までに。 杉本秀太郎「ひっつき虫」(2008年5月 青草書房) 随筆集ですが、P205より、「佐倉 パリ 京都」− 浅井忠の図案を見て と題したエッセイが掲載されています。(初出は「芸術新潮」平成14年5月号) 著者については、佐倉図書館HPの「仲町つれづれ」No176〜177を参照ください。 <返信> ありがとうございました。杉本さんは、昔佐倉にあった奈良屋の子孫の方ですね。題名がユニークです。さっそく探してみましょう。 6月30日 駕篭舁さんから佐倉本情報のメールあり 永井路子『岩倉具視』(2008年 文芸春秋社) ご存知のとおり著者は歴史長編小説の大家ですが、この作品の「あとがき」によれば、「岩倉具視は四十数年も前に書きたいと思いながらこれまで書かなかった」とあり、 長い間暖めてきたテーマを「人生を終わろうとするとき、その答の一部として」作品化したそうで、それだけにたいへん面白く読みました。 39ページから49ページにかけて、米国との修好通商条約勅許のため上京した堀田正睦のことを中心に多く書かれています。 「このとき手入(賄賂のこと)の効果を信じきって壮大な失敗をしたのが老中堀田正睦ということになっている」 「堀田正睦は慶喜派である。泥沼化している継嗣問題について、上洛して公家政府から将軍は慶喜をというお墨付きを貰って勝負を決めようという魂胆だった。」(39P) 「誤認のほかに錯覚があった。莫大な手入が効果を発揮しないわけはない、と思い込んでいたのだ。堀田正睦は、将軍からの正式の贈物として、天皇には金屏風と黄金五十枚のほか・・・・ 金銀、物品をばら撒いたが、それとは別の手入にも万々ぬかりはなかったはずだ。が、結果は予想外だった。・・・・・堀田にとっては手痛い敗北である。」(41P) 「堀田は、この政通(鷹司)の実力を見損なっていたのだ。」(45P) 「しかもこのとき、九条尚忠も内覧の宣旨を得ている。二人の文書内覧が微妙に相克をくりかえしていることまでは、堀田も気づかなかったらしい。といって、 彼が大失敗に頭をかかえていたかというと、それほどでもない。」(46P) その外にも正睦の記事はたくさん出てきます。手入が失敗に終わったことのみが、強調されているようにも見えますが、 著者の視点は、世界の趨勢をまったく読めなかった狭隘な公家(岩倉は別として)の社会を指摘したかったように思えます。 6月20日 Nさんから佐倉本情報あり 三好徹『侍たちの異郷の夢 幕末長崎物語』(2008年4月 1800円 光文社) 短編。「死ぬな良順」「浦賀から五稜郭へ」などに、松本良順、林董が描かれています。 NHKの大河ドラマ「篤姫」のあとに放映する紀行に、佐倉が6月22日に放映されます。楽しみにしています。 6月16日 佐倉本情報 雑誌『武道』6月号(2008年6月 ベースボールマガジン社) 「古武道の技と心をたずねて」に立身流兵法」が紹介されています。(76P〜87P) 情報誌『いんば沼』第29号 (2008年5月 印旛沼環境基金) 梶山誠「いんば沼の魚たち むかし、そしていま」 五十嵐行男「いんば沼畔の女神たち 宗像神社・厳島神社・水神社(神宮)」 本橋敬之助「いんば沼の汚れ対策」 6月14日 高崎哲郎『評伝 大鳥圭介 −威ありて、猛からず−』(2008年4月 鹿島出版会) 続き P149:松本良順 <庄内藩に出向く土方歳三についての説明文中の同行者> P154:・・・(この月一〇日、圭介の三女きくが妻みちの隠れ住んでいる下総・佐倉 (現佐倉市)の知人宅で誕生したが、東北の地で転戦を続ける圭介には吉報が届かな かった)。 P171:林薫 <五稜郭での降伏間際の内情の後日談を文中で語っている> P189:林薫三郎(のちの外交官林薫) <旧政府軍の陸海軍士官が囚われの身になっ ても研鑽を積んだ話の文中> P206:津田梅子 <岩倉使節団とともに出航した留学生のうち七歳で最年少の説明 文> P214:林薫<リバプール港で岩倉使節団を日本大使館二等書記官林薫らが出迎え> P236:津田仙 ・・・同年一一月、大鳥は、岸田吟香や津田仙らの呼びかけに応じ て、東京・銀座に簿記夜学校を開設する計画に協力した。 P245:津田梅子 <華族女学校の英語教授補・津田梅子が校長の大鳥圭介について述 べた内容> P246:西村茂樹 <華族女学校の校長が大鳥圭介から西村茂樹に交代したことの記 述> P268:林薫 <日清戦争後の講和条約締結直後にロシア、ドイツ、フランス三国の在 日公使が相前後して外務次官林薫に面会したことの記述> P286:林薫 <大鳥圭介の葬儀に参列した要人の列挙の文中> <返信> とても長く抽出していただきまして、ありがとうございました。 それにしても、佐倉ゆかりの人が、よくもここまで出ていましたね。さっさく本を注文します。 6月12日 高崎哲郎『評伝 大鳥圭介 −威ありて、猛からず−』(2008年4月 鹿島出版会) 昨日の続き P78:木村隆吉 ・・・慶応四年四月一一日、江戸城無血開城の報を聞いた旧幕府陸軍 歩兵奉行大鳥圭介は雨が降りしきる中、元佐倉藩士木村隆吉を従え中間の虎吉に柳行 李一荷を背負わせて、元勘定奉行小栗忠順邸に近い神田駿河台の私邸を密かに離れ た。 P79-80:木村隆吉 ・・・元歩兵奉行の護身役(副官)に命じられた木村隆吉は天保 九年生まれで、同三年生まれの圭介より六歳ほど若い。彼の経歴をつまびらかにしな いが、二〇歳のころ佐倉藩の命を受けて江戸の塾で洋学や兵学を学び、のちに「大筒 方」に勤めたとあることから蘭学や西洋砲術を会得したと思われる。(『佐倉市史研 究第一〇号』の内田儀久論文)。 この「江戸の塾」は佐倉藩藩士の洋学者木村軍太郎 の木村塾か江川塾であると推測される。江川塾で蘭学や西洋兵学の教授を務めていた のが大鳥圭介である。隆吉は圭介に師事して研鑽に励むうちに、圭介にその才覚が認 められ信頼を勝ち得たのではないだろうか。圭介は江戸脱出の際唯一の側近として三 〇歳の隆吉を選んだ。この事実に、その間の経緯がうかがわれる。そして幕府の相当 額の軍資金を隆吉と中間虎吉に運び出させた。 P88:木村隆吉 ・・・四月一二日、都督大鳥圭介は会津藩士・幕僚柿沢勇記や副官木 村隆吉ら中軍士官と昼食のむすびを頬張った後、大林院を出発し松戸宿に向かった。 P89:木村隆吉 ・・・自らも戦闘に備えて馬に乗り副官木村隆吉らを同行させて周辺 の地形や街道などを確認して回った。 P94:木村隆吉 ・・・(圭介の側近木村隆吉はどんな人生を送ったのだろうか。『佐 倉市史研究第一〇号』の論文などによれば、「佐倉藩士小柴家の長男小次郎の名誉が 回復されたのは、もうひとりの佐倉藩脱藩者木村隆吉とともに『両士記念之碑』が、 藩士の末裔でつくる佐倉郷友会の手によって(佐倉市内の)麻賀多神社境内に建立さ れたことによる」とある。隆吉はその後圭介と袂を分かって彰義隊士となり五月十五 日の上野戦争で殉死したのだろうか。不明である。) P149:松本良順 <庄内藩に出向く土方歳三についての説明文中の同行者> P154:・・・(この月一〇日、圭介の三女きくが妻みちの隠れ住んでいる下総・佐倉 (現佐倉市)の知人宅で誕生したが、東北の地で転戦を続ける圭介には吉報が届かな かった)。(以下、後日) 6月11日 節の介さんから、佐倉本情報のメールあり 高崎哲郎『評伝 大鳥圭介 −威ありて、猛からず−』(2008年4月 鹿島出版会) 大鳥圭介の戊辰戦争、欧米視察、工部大学校長、清国公使などの足跡の中に佐倉ゆかりの人々が随所に出ています。 ・・・:本文抜粋 < >:節の介の解説 P6:林薫 ・・・九人のお雇いイギリス人教師人が外交官林薫に引率されて来日する のは、明治六年秋である。 P23:佐藤泰然 ・・・蘭学では関西の緒方洪庵、関東の佐藤泰然(佐倉藩)が当代双 璧の蘭学者であるとも伝えられた。 P33:木村軍太郎、手塚律蔵<江戸における蘭学塾の主宰者の説明文中> P36:堀田正睦・・・この年、「蘭癖」と評されるほど蘭学に傾倒していた堀田正睦 (佐倉藩主)が老中首座に就いた。 P74:・・・「子供たちを連れて下総佐倉(現千葉県佐倉市)の知りあいの宅に隠れ ていなさい。いずれ必ず迎えに行く」二女一男(長女ひな七歳、次女ゆき六歳、長男 富士太郎三歳)の幼子を連れ親藩佐倉藩の藩士荒井宗道宅に身を隠すように命じた。 下男安蔵と乳母てつ子を同伴させることにした。 ・・・雛祭りを前にした三月二日 朝、妻みちと子供たちは墨田川河岸で密かに小船に乗り込み小名木川から舟堀川を経 て江戸川に出て、江戸川を渡り陸路佐倉に向かった。長男富士太郎には女装をさせ た。これ以降、妻子は妻みちの実家の姓矢島を名乗り佐倉の武家屋敷の離れに身を隠 した。(以下、後日) <返信> 佐倉ゆかりの人がいたるところに出ており、引用箇所も長くなっています。 そのようなことで、少し区切りながら掲載をさせていただきます。 また、このように長い引用をつくってくれまして感謝しております。 6月9日 七つの子さんからメールあり 無沙汰しております。竜胆寺 雄についての日記を拝見しましたので、 すでにご存知のことと思いましたが、メールいたしました。 昭和58年7月発行の 「佐倉市ゆかり編著者 刊行図書展目録」の 末尾ページに竜胆寺雄からの書簡が載っています。 同氏と佐倉の関係や、佐倉炭のことなど、たいへん興味深い内容でした。 また、「私の佐倉ノート 第1集 (やまもも通り)」 - 平成10年 - という冊子にも、同氏、及び佐倉炭について記述がありました。 以上、ご参考までに。 <返信> ありがとうございました。 6月7日 節の介さんから佐倉本情報 竜胆寺 雄が佐倉の生まれだそうです。 少し著作を調べて、佐倉市民本として情報を提供しようと思っています。 市立図書館の蔵書検索で「志津郷土」の区分表示がついている図書もありますが、すでに文庫に収録済みでしょうか。 <返信> 竜胆寺 雄は、佐倉の宮小路に生まれて間もなく、引っ越しました。どこかに書いてあった記憶があります。 文庫には収録していません。竜胆寺は著名な作家で著作が多いですから、市民本といっても別枠で紹介したほうが良いかも知れませんね。 リストの量を見てから考えましょう。 6月4日 レントさんから佐倉本情報 日下公人・石平『日本と中国は理解しあえない』(2008年6月 1400円 PHP研究所) 佐倉の武家屋敷の写真が掲載されていました(85P)。内容とは関係がありません。 節の介さんからメールあり 千田 嘉博 編『空から見た日本の名城』(2008年3月 新人物往来社)佐倉城跡が掲載されています(48P)。 5月29日 佐倉本情報 雑誌『佐倉市史研究』第21号(2008年3月 佐倉市) 【特集】『佐倉市史』巻四 刊行 (1)執筆者からの紹介 『佐倉市史』巻四の編さんを終わって 白土貞夫 自治体史のなかの「政治史」 中村正弘 地域社会における女性たち 中澤恵子 『佐倉市史』巻四の執筆にあたって 矢嶋毅之 『佐倉市史』巻四の佐倉連隊関係部分について 一ノ瀬俊也 (2)刊行に添えて 「敬亭日記」にみる戦時下の生活 白土貞夫 敗戦直後の国民健康保険事業 中澤恵子 壮士・島田彦三郎 矢嶋毅之 【講演録】 沼津兵学校と佐倉藩士 樋口雅彦 【資料紹介】 西尾市岩瀬文庫所蔵『釈奠儀略』について 外山信司 【投稿】 佐倉藩の槍と火縄銃 井原重之 日清戦争・歩兵第二連隊の従軍兵士の構成について 北詰栄男 5月27日 佐倉本情報 先日、えりっぷさんから情報提供のあった『佐倉市史』です。 『佐倉市史』巻四(2008年3月 5000円 佐倉市・佐倉市史編さん委員会) 第一章 大正〜昭和戦前期の佐倉市域 第一節 大正・昭和初期の政治と行財政 第二節 大正・昭和期の産業 第三節 大正・昭和初期の学校と教育 第四節 五七連隊と地域 第五節 人々の生活 第六節 大正・昭和期の交通通信事情 第二章 戦時下の佐倉市域 第一節 戦時体制下と佐倉 第二節 戦時統制下の暮らし 第三節 戦時下の五七連隊 第四節 戦時下の生活 第五節 戦時下の教育 第三章 戦後の佐倉市域 第一節 戦後の軍事施設 第二節 敗戦から佐倉市の誕生と発展 第三節 戦後の産業 第四節 新しい教育とその発展 第五節 敗戦直後から高度成長期の生活 第六節 戦後の交通と通信 4月21日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 雑誌『週刊 アーティスト・ジャパン』通巻60号 「浅井忠」(2008年3月 デアゴスティーニ・ジャパン) 画家の生涯、作風と活動、ギャラリー、等の構成で浅井忠が紹介されています。 雑誌『週刊 日本の100人』番外編第15号 「緒方洪庵」(2008年4月 デアゴスティーニ・ジャパン) 松本良順が緒方洪庵のポムベ批判に対して抗議したことなどが P27の評伝アラカルトに半ページ記載されています。 4月13日 節の介さんから佐倉情報のメールあり 佐倉観光案内パンフレットです。 「車だん吉のぶらり北総路の旅」(2008年3月 製作・発行 千葉県北総観光連盟 制作 車 だん吉) 佐倉、成田、佐原、小見川、東庄、銚子を紀行文とイラスト・イラストマップで紹介しています。 佐倉については、 「般若とカルボナーラ 〜蘭学薫る城下町・佐倉〜」 という見出しで、ともだちと歴博、城址公園、武家屋敷などを訪れたことや そば屋さんでの昼食の内容などが説明されています。 <返信> ありがとうございました。 4月7日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 雑誌『週刊 日本の100人』通巻74号 「津田梅子」(2007年7月 デアゴスティーニ・ジャパン) 年表に沿ってトピックスが写真付きで紹介されています。いくつかのヒューマンエピソード、梅子が目指した教育、などが 説明されています。 <返信> ありがとうございました。 3月30日 えりっぷさんからメールあり 佐倉の文字を見つけたのでお知らせです。「吉村昭ー歴史の記録者」(2008年2月 河出書房新社) 対談「十六年のタイムラグー『仮釈放』をめぐって」のなかで「僕は小説を書き始めた二十代の時から、フィクションでも割りと調べるのです。 だからそれが自然と習い性になってしまっていて、ここに出てくる菊谷が故郷の佐倉へ行く時なんかも、小説の中と同じように、夜に行ったんです。 明かりが見えるかどうか、とかを調べる。もちろん一つ前の駅から小説のように歩いたわけでなく、タクシーですが」とありました。 初出は1988年の「波」とありますので、ご存知かと思いますが一応のお知らせです。 3月28日 津田仙関係の佐倉本情報 棚村恵子『しなやかに夢を生きる 青山学院の歴史を拓いた人 ドーラ・E・スクーンメーカーの生涯』(2004年11月 青山学院) 「津田のキリスト教への関心は、教理の内容や実存的な問いにあったのではなく、もっぱらプロテスタントのキリスト教は日本の近代化に寄与するという点にあった。」114P このほか、津田仙のキリスト教に対する考え方が記されています。 葛井義憲『巖本善治 正義と愛に生きて』(2005年9月 2400円 朝日出版社) 「巖本善治は、少・青年時代、幕府学問所の御儒者で、洋学者であった中村正直(数学)の同人社(1876年―1880年在籍)と農学者、津田仙の学農社(1880年―1884年在籍)で学んだ。 それは善治の13歳から21歳頃のことである。」8P 高見澤潤子『真実の愛を求めて』(1990年9月 2500円 教文館) 津田仙が禁酒・禁煙運動の話をしていたとき、聴衆が自分の「きせる」などを提出して禁酒・禁煙のちかいをしたことがあり、それを保存して釣鐘をつくった。 これを「釣鐘の出品」という題で綴られている。7P〜30P 山梨県生涯学習推進センター編『山梨学講座3 山梨の人と文化』(2005年7月 山梨ふるさと文庫) 栗原信近関連年表中、「明治9年 津田仙をワイン醸造のため甲府に招く」とある。144P 平山敏雄『鍋茶屋ものがたり』(平成9年6月 新潟日報事業社) 津田仙は、戊辰戦争時、新潟奉行に通訳としており、そのときの話が所々に出てくる。 大久保利謙『明六社』(2007年10月 1100円 講談社) 西村茂樹の『往事録』(抄)を取り上げ、若き茂樹の写真が掲載されている。24P 演説会における津田仙の演説もある。47P、48P、164P、166P 3月17日 ここのところ、佐倉炭についての小文を書くために、資料を整理している。 高橋宗司『津田仙評伝』(2008年3月 2500円 草風館)購入。来月は仙の没後、百年にあたる。 仙は、日本で最初に通信販売を始めた人、東京で最初に街路樹を植えた人(ということは日本で最初に街路樹を植えた人といえるか)、天津栗を日本に持ち帰った人である。 本書は読みやすく、またよくまとめられているので、幕末から明治にかけての幕臣の動きに興味のある方、女子教育に興味のある方(津田梅子の父)、山梨の葡萄酒に興味のある方などにお薦めします。 まだ、いろいろな内容があります。ということは、それだけエネルギッシュな人であったということでもありますね。 2月29日 佐倉本情報 雑誌『疎水のある風景』(2008年2月 全国水土里ネット) 印旛沼の風景写真が掲載されていました。(34〜39P) 2月27日 節の介さんからメールあり 坂のWEB情報、Sさんの参考になった由、よかったですね。 それから佐倉本情報です。 新刊案内のページの平成16年2月に「大鳥圭介が妻子をあずけた佐倉藩士は誰か」という 疑問が残っている件についての関連情報を連絡します。 古賀志郎『大鳥圭介−土方歳三との出会いと別れ−』(1993年5月 彩流社) 「圭介の一言で温和しく平安を保っていた伝習隊の兵士達は怒りを募らせていった。隊員たちは反東征軍に 決起するよう圭介に迫った。 意を決した圭介は下総佐倉藩士荒井宗道に妻子を託することにした。下男の安藤と下女のてつこが供をした。みちは 八才を頭の三人の子を引連れて江戸を脱出した。荒井宗道は幕内の知人であった。屋敷に一棟を建て増しして圭介の妻子 を預かった。探索は厳しかった。 『決して軍人に大鳥の名を名乗ってはならぬ』矢島と名乗るように子供らに言いつけた。 みちの旧姓である。」(27P) 〈返信〉 ありがとうございました。荒井宗道のことは、どこかの記憶にありました。 本書には、大鳥圭介が江戸を脱出するにあたって、その手引きをした元佐倉藩士木村隆吉のことも記されていましたね。 この出典は、自身の著である「南柯紀行」にありますので、妻子を託する記事もあったかも知れませんね。再度、読んでみます。 いずれにせよ、佐倉藩は幕臣がいざ決戦にあたって、妻子をあずけることができる(信頼できる)土地(藩)であったということになりますね。 2月25日 節の介さんからメールあり 大鳥圭介のことを調べていたら、偶然に資料中に西村勝三に関する記載を見つけました。 大鳥圭介『武蔵国並東京古今沿革図識 』 (1886年6月 丸善) 第四 東京開化事績年譜に 「仝三年 西村勝三伊勢勝東京築地入舟町ニ造靴工場ヲ設立シ支那人靴工ヲ傭入レ造靴ノ業ヲ伝習ス是造靴ノ始メナリ」(31〜32P) という記載があります。なお、「仝」は「明治」を指しています。また、伝の漢字は新字に変えました。 〈返信〉 ありがとうございました。 2月22日 佐倉本情報 高橋宗司『津田仙評伝』(2008年3月 2500円 草風館)が、3月1日に発刊予定です。 津田仙は、佐倉生まれ。津田梅子の父。通信販売を日本で始めた人物。また青山学院大学の源流をつくった。今年は、津田仙没後百年にあたる。 本書には、仙の知られざる業績が記されていることだろう。発刊されるのを楽しみにしている。 2月17日 佐倉本紹介 雑誌『花美術館 特集 浅井忠』(2007年8月 1200円 (株)花美術館) 近代洋画の先駆者で佐倉ゆかりの浅井忠を研究している前川公秀氏の論考に教えられるところがあった。 風景画のモチーフの原点は、写真であるというのである。そして、浅井の描いた絵画と、その絵画に似た写真を提示していた。似ているというより、そのものである。 また、浅井が選んだ写真は、当時、外国人の土産用に売られていた横浜写真であるという。詳しくは一読を勧めます。 2月16日 佐賀のMさんから教えていただいた松浦玲『還暦以後』(2002年11月 2200円 筑摩書房)を購入。 旧佐倉藩士であった依田学海の話あり(72P)。還暦以後といえば、やはり佐倉にゆかりのある金工家で歌人でもあった香取秀真に同名の歌集(1947年) がある。発行は香取秀真先生古希記念会。櫻書房が出版させてほしいと原稿を持ち去ったのが昭和19年、そして、発行は昭和22年であった。 終戦後、まもなくの出版である。この時期に本を出版することは、いろいろなご苦労があったことと思う。 話が横道に逸れてしまった。松浦玲氏は、還暦以後も生きた著名な人々の生き方を紹介している。人生80年時代、参考となる生き方があった。 1月25日 えりっぷさんからメールあり 面白い本を見つけました。内藤誠『ヘボン博士のカクテル・パーティ』(1993年 講談社インターナショナル株式会社) その第一章「ドクトル・ヘボンきたる」のところ少し長いですが引用します。「わけても、当時の名優、三世沢村田之助とのかかわりは演劇史上の伝説であるから、 しばらくそのことに触れてみたい。(略)田之助は継母に松の木に吊るされるという場面で、縛っていた綱が切れて舞台へ転落するという事故があった。 (略)最初はしばらく休めばなおると思い、無理をかさねているうちに、慶応三年五月、黙阿弥がわざわざ田之助のために書いてくれた 『妲妃のお百』にも激痛のため出られなくなり、家橘(のちの五世菊五郎)に代わってもらうことになった。 さすが天下の大スタアだけに、あいだに立つパトロンがいて、下総佐倉の名医佐藤泰然とその息子である幕府医学所取締の松本良順が診断に当たる。 良順は右脚を切断する以外に手はなく、しかもこの難しい手術ができるのは横浜にいるヘボン先生しかいないと言って田之助のために紹介状を書いた。」(P40〜P41) 明治のいろいろな人物のつながりに注目して書かれた本です。私は佐藤さんとのつながりのみに関心があったので第一章のみ読みました。興味がおありの方は図書館で取り寄せてみてください。 〈返信〉 ありがとうございました。 1月13日 えりっぷさんから佐倉本情報のメールあり 佐藤泰然さんの本を色々読もうとしてますが、いかんせん年代物の本が多く読むのに苦労してます。佐倉本といえるかどうか、一冊ご紹介します。 金子務『江戸人物科学史ーもう一つの文明開化を訪ねて』(2005年 中公新書)箕作阮甫の項目に「『箕作の血は学者の血、佐藤[泰然・順天堂] の血は医者の血」と評したのは明治のジャーナリスト福地源一郎(桜痴)である。 (中略)江戸の蘭方医には二つの学統があり、一つは大槻玄沢をはじめとし、もう一つは桂川甫周をはじめとするものである。 それでいえば、佐藤泰然は桂川系であり、箕作家は大槻系といえる」とありました。(235〜236P) 佐藤さんは、なかなかてごわいです。 〈返信〉 佐倉本ですね。 順天堂関係者は医学関係に多くの逸材がいますから、その一人一人を追うだけでも大変ですね。気長に調べてください。 1月12日 佐倉本情報 小関与四郎 写真集『国鉄 蒸気機関車の記録』(2008年1月 9500円 アーカイブス出版) 昭和40年代前半、佐倉機関区で撮影された蒸気機関車、そして作業に従事する人々のドキュメント写真集です。 写っている機関車は、C571,C578,C57114,C57125,C57134,C5755, C5771,C5777 C584,C5813,C58101,C58102,C58150,C58156,C58166,C58179,C58289, C58293,C58297,C58305 58168,58305,58683,58684,586?7 1月9日 佐倉本情報 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』(2007年11月 730円 文春新書) 旗本夫人である井関隆子が、天保11年(1840)1月1日〜15年(1844)10月1日までの江戸の様子を綴った日記。 天保14年6月には、印旛沼開鑿のことを記しています。(109〜117P) 佐倉本情報 図録『小川芋銭 河童百図展』(2007年10月 茨城県立歴史館) 河童百図は、小川芋銭が画商の求めに応じて百枚の河童絵を描いたものです。このうち、第三図の河童は「印旛沼の一本足」とあります。 芋銭が描いた河童は「北斎漫画」や「日本霊異記」などを参考にしていると編者は推察しているように、 そこに登場する河童は日本各地の河童ということになります。 牛久沼といえば河童を思い浮かべますが、描かれた河童は牛久沼にいた河童の百図ということではないんですね。 思い込みの危うさを感じました。 いずれにせよ、どこかの図書館か資料館で機会があったら「印旛沼の一本足」の河童を一見あれ。驚くというものではありませんが、これが印旛沼の河童かと親しみを持つ(私だけか)。 なお、茨城県立歴史館で開催された「小川芋銭 河童百図展」に眼がいったのは、2006年2月10日、ギムリさんから「河童百図」の情報提供を受けていたことを覚えていたからでした。 1月8日 Oさんから佐倉本情報あり 雑誌『うすゐ』第23号(2007年12月 臼井文化懇話会) 岡野康夫「印旛沼と臼井」 山倉洋和「土井利勝研究ノート」 〈返信〉 ありがとうございました。 ★★★ 佐倉市民本情報 淺永マキ「卒業ルビー」『届かない想い』所収(2007年12月 日本文学館) 昨年、刊行情報を掲載しましたが、ようやく手に入りました。 1月7日 えりっぷさんからメールあり 今、志津図書館からお借りした杉山義法著「五稜郭 日本テレビ大型時代劇」(1988年刊)を読んでいますが、40ページにもわたるカラー写真ありですごいです。 シナリオなので映像そのままのナレーション人物説明あり、配役表ありで、佐藤泰然ファミリー総出演の感があります。私は後編部分を少しみていただけだったのですが、 前編部分には佐藤家の人々が色々と出ていたんですね。見逃して残念です。 〈返信〉 そうですか、私もあとで借りることにしましょう。 ★★★ K2さんから佐倉本情報のメールあり 馬渕礼子『浅井忠白書−馬渕礼子評論集(1)』(2006年7月 3999円 短歌研究社) 歌人馬渕氏が、洋画家浅井忠を歌人の目で捉えた美術評論集。浅井の故郷佐倉、留学先のフランス・グレーにその足跡を辿る。 雑誌『花美術館 特集 香取秀真 津田信夫』(2007年11月 1200円 花美術館) 佐倉にゆかりのある香取秀真 津田信夫の年譜や作品、作風などについての解説などがあります。 〈返信〉 ありがとうございました。 K2さんから司書のご承諾をいただきましたので、竜神橋というハンドルネームで登場していただくことになりました。 みなさん、よろしくお願いします。 1月6日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり あけましておめでとうございます。 前市長であった渡貫博孝氏の『市長の144か月』(2007年6月)は佐倉市民本/佐倉本ではないでしょうか。 〈返信〉 渡貫博孝氏の『市長の144か月』は、佐倉本であり、佐倉市民本でもありますね。ありがとうございます。 トップページ |