佐倉本情報 佐倉本は、小説、雑誌、同人誌などに佐倉が一文字でも出てくる冊子の総称です。 【図書の紹介にあたって】 図書を紹介するにあたっては、著者、題名、発行年、出版社を記入するほか、佐倉が出てくる部分を一部引用しています。これは、題名だけでは図書の内容がわからないため、利用者が図書を選ぶにあたっての目安としていただきたいと考えたからです。 引用にあたっては、掲載した文章の誤字、脱字もあろうかと思うので、利用者は原著を読み、原著から引用をしていただきたいと考えています。 また、引用部分は文庫で判断したため、著者の納得いただける引用部分ではないかも知れませんが、なにとぞ趣旨をご理解いただきたく、お願いいたします。 【2007年1月1日〜 】 12月21日 佐倉本情報 海野道義『佐倉とフランス』(2007年8月)長年書き溜めた研究論文を、集録した本です。 「千葉県立佐倉高等学校の『鹿山文庫』所蔵の仏書について」「佐倉兵営の築営とジェラール瓦」「『ルボン地図』考」 「1931年パリ万国地理学会議―併催出品資料」の4論文が収められています。 『ひまわり倶楽部』(2007年12月 ちばぎん総合研究所)特集◎城下町の文化と水辺の自然に親しむ旅「佐倉・印旛沼紀行」あり。 私は、旅のコラム「多くの傑人を生んだ幕末〜明治期の佐倉」を執筆しています。千葉県内の千葉銀行に配置される、この雑誌には、 私の経歴として「佐倉市の歴史や文学に関した図書情報を集める電子図書館 満開佐倉文庫を主宰」としました。 12月18日 山田養蜂場が主催する第9回「子どもたちのためのミツバチの童話と絵本のコンクール」において、佐倉市在住の藤原あずみさんが入賞し、 「2008 ミツバチの絵本 チャリティカレンダー」(山田養蜂場 発行)の3月に絵と原作の一部が掲載されました。 *佐倉が出てくるオリジナルカレンダーを製作した人は、お知らせください。(家族もの、または50部以下のものは除く) 12月17日 Sさんから佐倉本情報あり 雑誌『おかずのクッキング』12・1月号(テレビ朝日発行)「毎月19日は食育の日 郷土料理を食べよう」で、佐倉の和田小学校の事例が取り上げられています。 12月13日 淺永マキさんの小説が掲載されたオムニバス本『届かない想い』(2007年12月 日本文学館)が発刊されました。 12月11日 節の介さんから佐倉本情報あり 雑誌『すたっと Stad』 14号/2007年末・2008年始号(2007年12月 高千穂ネットワーク) 「開国150周年と佐倉」に、3人の方(堀田家廟所清掃の会世話人、郷土資料収集家、佐倉藩友会事務局長)の メッセージが掲載されています。(6P,7P) 「佐倉七福神」七福神をめぐる写真紀行!(14P,15P) まちの職人「組紐職人 久田余松さん<佐倉市西志津>」(20P) 12月7日 節の介さんからメールあり 左右田 兼 『球魂の蹉跌』(1895年7月 春陽堂書店) 「S駅に着いた。・・・尚子はS市の社会福祉協議会のボランティアを している。 ・・・・・・・ 彼は駅前からつづく坂道を上っていった。この町は起伏の多い地形で、 繁華街はちょうど馬の背にあたる部分に、横に長く延びていた。 その目抜き通りを抜けてしばらく行くと、昔の城下町の名残で、 ところどころに武家屋敷の跡が残る静かな住宅街がある。 目指す家はその一角にあった。」(26〜27P) 〈返信〉 ありがとうございました。 12月5日 駕篭舁さんからメールあり オフ会ご案内有難うございました。11月中旬に手術をし、退院してきたばかりです。 入院中の後半は暇でしたので、病院の売店で時代小説の文庫本を買い、読んで いましたら、堀田相模守正亮が出てきました。正亮が小説に登場するのは珍しいの ではないかと思います。 小説の筋は、幕府転覆を企む陰陽師等を、田沼意次に仕える隠密が最後に江戸城 大奥の中でそれを阻むという到底あり得ないフィクションですが楽しく読めました。 正亮が登場する部分だけをファイルでお送りします。 ベスト時代文庫 『陰陽の城』吉宗影御用 磐紀一郎 KKベストセラーズ 2006/12/1初版 (本作は1995年に徳間書店より刊行された『江戸城大変』を改題し大幅に加筆修正 したものです)と末尾にありました。 〈返信〉 入院していても、佐倉本は探せるんですね。お体を大切にしてください。 ★★★ 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 左右田 兼『疑惑の渦』(<幻影城ノベルス> 昭和53年4月 幻影城 発行) 「刷り始めようという時になって、ニュースが入ってきたのです。 佐倉(市)で、去年にせ札が出たのを覚えていますか?」(281P) 「丁度、いま刷ろうという間際だった。ぼくは、それを横目でみながら、 同じ部屋から編集局に、佐倉(市)ににせ札の犯人が現れたらしい、 と電話した。慌てて出版部にストップの指令が来たときは、 ほんの僅かだが、新聞が刷り始められていた・・・・・・」(295P) この本は、志津図書館所蔵ですが、背表紙に「佐倉縁の文学」という シールが貼られています。 〈返信〉 知りませんでした。ありがとうございます。 12月2日 えりっぷさんから佐倉本情報のメールあり 公私ともに忙しくご無沙汰です。佐倉本を偶然見つけましたのでお知らせです。ご存知かもしれませんが井利儀一『燃ゆる水』第14話佐倉哀感(2007年4月 文芸社)です。 短いエッセイをまとめたもののようです。「佐倉の街をこよなく愛している」と始まり 城下町佐倉のよさと消えゆくものの哀れをつづっていらっしゃいました。 ところで昨日NHKで「ひとがた流し」が放送されていたようです。うっかり見逃してしまいましたが全3話のドラマということですので、次回は見てみたいと思います。 〈返信〉 知りませんでした。読んでみたいですね。さっそく探してみます。 NHKの「ひとがた流し」は佐倉と関係があるのでしょうか。 11月13日 佐倉本情報 笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』(2007年10月 1600円 講談社) 「汗の霧の中に身を投げるようにして、埴輪いぶきは、まるで都心のような混雑のS倉市嘘井駅前を歩いていた。今までのそこは郊外によくある水底のような駅であった。 広場には大きな楠の木が一本。午前一時を過ぎれば人口十万人のS倉市の、特急通過駅は真っ暗になる。毎夜、この街に鉄道が引かれてからも、その 楠の木には街中の鳥が集まり、眠ったものだ。 毎夏、マカタの社で過ごすフクロウは夜毎そこに降り立ち、一晩に一羽の小鳥を狩った。」(3頁)その他の頁にも出てきます。 11月4日 れんとさんから佐倉本情報 佐倉市在住の作家笙野頼子氏の特集がありました。 『文藝 特集・笙野頼子』冬(2007年11月 1000円 河出書房新社) 写真撮影は佐倉で行われ、笙野さんのバックに佐倉の風景がカラーで写っています(佐倉とわかります!)。また、自筆年譜・アルバム・全著作レビューなどがあり、たいへんに参考となる本です。 佐倉市在住の方には、お薦めします。 <返信> ありがとうございました。さっそく購入します。 11月3日 佐倉市生まれの作家淺永マキ氏の新情報 日本文学館発刊のオムニバス本『届かない想い』今月発刊に、超短編「卒業ルビー」が掲載されます。 また、来年2月発刊予定の、同じく日本文学館オムニバス本『SWEET MEMORY』に掌編「孵卵少女」の掲載も決定しました。 どうぞ、ご覧ください。 満開佐倉文庫では佐倉にゆかりのある作家や、佐倉のことを書いてくれた作家を応援しています。情報をお寄せください。 10月23日 佐賀のMさんから教えていただいた『清河八郎遺著』を、県立図書館から借りる。清河八郎が佐倉にきたこと。天狗党横暴の話が佐倉にも流布されていたことがわかる。 10月21日 佐倉本情報 『国立歴史民俗博物館研究報告 佐倉連隊と地域民衆』第131集 A4版 336P(2006年3月 国立歴史民俗博物館) 〔論文〕 塚本学「城下町と連隊町 ・・・佐倉町のばあい試論」 宮地正人「佐倉歩兵第二連隊の形成過程」 一ノ瀬俊也「佐倉連隊の日常生活 昭和九年のある上等日記から」 〔資料紹介〕 宮地正人「佐倉連隊関係資料」 安田常雄「昭和戦前期における第五七連隊と佐倉の町並み」 樋口雅彦「『さくら』『千葉連隊区将校団報』『五七』の総目録 水戸のUさん、T3さん、ありがとうございました。 10月18日 久しぶりにワクワクする佐倉本情報 白石良夫『幕末インテリジェンス 江戸留守居役日記を読む』(2007年10月1日 438円 新潮社)幕末、佐倉藩士であった依田学海は江戸留守居役に抜擢されます。 江戸留守居役とは、幕府や他藩の情報を調査することを職務とし、藩の方向を左右するような重職でありました。 佐倉藩は徳川譜代藩としての位置付けでしたが、そのことが維新時、幕府方につくか、官軍方につくかの決断で苦悩するところとなります。佐倉藩の苦悩は、依田学海の 苦悩でもありました。 本書は、新書版『最後の江戸留守居役』を改題したものですが、文庫版となって読みやすくなっています。幕末から明治にかけて、佐倉藩のことを知ろうと思ったら、 ぜひ本書をお薦めします。 白石氏は、学海が記した日記を解読した一人で、その記録は『学海日録』(岩波書店)として世に紹介されていますので、ご存知の方もおられることと思います。 私も読み始めたばかりですが、幕末から維新にかけての佐倉藩の動きが手に取るようにわかります。本書は佐倉本の第一級といえます。 10月17日 〈Mさんへの返信 10月15日の佐倉情報について〉 河野桐谷編著『史談 江戸は過ぎる』は、メールをいただきながら漏らしていました。さっそく、図書館にリクエストすることにします。 古書店の浅倉屋については、『書遊楽宴 古書稀覯本販売会』という古書目録に、自店の宣伝文句として、もと佐倉藩士の出であった吉田庄左衛門の創業と、記されています。 これも佐倉本ですね。ただ、発行年が記されてなく、何年のものか定かでなくなってしまいました。 鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』は、『写楽』という雑誌に連載していた話をまとめた本ですね。私は写真に興味を持っており、毎号切り抜いていました。もう20数年前のことになります。 確か、スフィンクスの前で写真を撮った武士のことも書いていたと思います。これが池田遣欧使節のことであったと思います。 私はスフィンクスの前で写真を撮った武士の姿を不思議な気持ちで眺めていました。 池田遣欧使節団については、内藤遂『幕末ロシア留学記』に、参加した横山敬一の話が記されていますので参考になります。山内六三郎のことが詳しく記されています。 小金原は、松戸市にあります。 須原屋茂兵衛の碑文の撰については、知りませんでした。渋井太室は佐倉藩の儒者でした。間違いありません。 宮部鼎蔵は新選組が池田屋に乗り込んだときに斬られた人物ですね。佐倉から下妻(茨城県)というコースは、どのような道筋であったのでしょうかね。興味を覚えますが検討がつきません。 清河八郎著『清河八郎遺著』については、どこかで教示をうけたような記憶があります。新選組を追っていたとき出会ったかも。 もしかすると、ホームページのどこかで触れているかも知れません。忘れてしまいましたので、もう一度、借りてみようと思います。 『側面観幕末史』は、私も昔に買い求めましたが、落首や落書きばかりですから、おっしゃるとおり使う機会がありません。 堀田原に屋敷があったのは、堀田正盛ですね。 来月の佐倉情報を楽しみにしています。 10月15日 佐賀のMさんからメールあり いつものように佐倉関連情報になります。 同好史談会編『漫談 明治初年』(批評社・2001年刊)は、先のメールで話題にした河野桐谷編著『史談 江戸は過ぎる』(新人物往来社)と同趣の聞書きで、 元版は昭和二年一月一日に春陽堂から発行されています。ここにも河野桐谷の談話があり、父親の西村勝三を「靴、メリヤス、煉瓦、瓦斯」で語っていました。 西村勝三は本書に何度も登場しており、芸者遊び好きで、洒脱な人物であったようです。西村の旦那の耄碌会の趣向で昔の服装で遊ぶ話しがあったり、向島に伊勢勝さんの銅像が建っているとありました。 伊勢勝は製靴工場の名前です。 この製靴工場の件で下総小金ケ原の開墾の話しが士族授産として出ていました。佐倉関係では、他に海水浴の始まりの松本順や、大の馬琴好きであった依田百川、 古本屋の浅倉屋の先祖は堀田浪人で「本国下総、生国近江」の系図があるという話などが出ていました。 この内、浅倉屋の件は既にHPで話題になっていました。 山口県 教育会編纂『吉田松陰全集 第十巻』(岩波書店)が「佐倉と印旛沼」で話題になっていましたので読みました。 この巻収録の紀行日記の「東北遊日記」に、吉田松陰が小金原を通過していました。小金駅を過ぎて、広原漫漫の小金原を過ぎていました。残念ながら佐倉通過はありませんでしたが、 松陰の後を追った宮部鼎蔵は行徳・佐倉・下妻のコースを通って水戸で松陰に追い着いていました。 鈴木明著『追跡 一枚の幕末写真』(集英社・1984年刊)に、田島応親の『兵制改革談』からの引用で、明治十年小金原(千葉県)に幕末フランスからもたらされたアラブ馬が一頭いたという記述がありました。 何度も登場する小金原は松戸市になるでしょうか。本書は、函館脱走兵達の写真を題材にしたドキュメントであり、写真に写っている日本人とフランス人らの身元調査を敢行した成果を綴った本です。 池田遣欧使節の話しも出てきますので、山内六三郎も登場しました。松本良順とは従兄弟であると書かれていました。 今田洋三著『江戸の本屋さん 近代文化史の側面』(日本放送出版会)に、江戸の本屋である須原屋茂兵衛の考察があり、四代須原屋茂兵衛の碑文の撰を佐倉の藩儒渋井太室が書いていました。 清河八郎著『清河八郎遺著』(民友社)に、天狗党騒動の探索行で佐倉にも偵察に出掛けていました。 「佐倉の城下に至り、文武舎、油屋に息ひ、当藩の文学、続得蔵方に書状を贈り、出会を乞ふ、病気の断りあり。」が「潜中始末」にあり、漢文の「潜中紀略」には 「至佐倉。浮評漸譟。店婦止我曰。君不可東行。若有不慮。悔之何益。」とあった。油屋が又登場しました。 総髪の清河八郎は旅の途中に天狗党に間違われていました。 櫻 木章著『側面観幕末史』(啓成社・明治38年刊)は落首や落書きを題材にした毛色の変わった幕末史の本です。 この本は数年前に読んでいましたが、暫く前から再読しようと書名を思い出そうと苦戦していました。卑近の読書の参考文献に本書を見つけもしやと思い手にしたら念願の本でした。 落首や落書の検索語では出てこなった筈です。当然堀田備中守も登場します。 しかし落首落書ですから毀言ばかりですので、引用は控えましょう。因みに蘭癖の語彙は出て来ませんでした。 吉村昭著『暁の旅人』(講談社・2005年刊)は松本順を扱った小説です。当然「佐倉と印旛沼」で話題になっていましたが、残念ながら本書のことを知ったのは「佐倉と印旛沼」ではありませんでした。 付箋紙を挟んで読むような小説ではありませんでした。 先に言及した山内六三郎は佐藤泰然の義理の甥になり、佐藤泰然は晩年彼の家に身を寄せていたと書いていました。 先のメールに、高村光雲著『高村光雲懐古談』(新人物往来社)に堀田様の屋敷があったという堀田原のことを書きましたが、 夏目漱石の『夢十夜』にも堀田原が出ていました。 林望の新刊である『リンボウ先生が読む 漱石「夢十夜」』(ぴあ)を読んでいたら、三話に堀田原が出てきました。 毎度の如く佐倉本情報ではありませんので不悪。相互貸借の本が届いてから何か鍋島開墾のことが分かれば続報します。 〈返信〉 祭り疲れが吹き飛ぶようなメールです。毎月、これだけの佐倉関連情報を探すのですから、その読書量は相当のもので、敬服いたします。 まずは、お礼を申し上げ、詳細は後日、差し上げます。 10月12日 節の介さんから佐倉本情報 情報紙「すたっと」2007年10・11月号(高千穂ネットワーク) 「佐倉の秋祭り」・大神輿、山車のこと ・横町祭礼委員長インタビュー ・上町武尊囃子連の取材(6〜7頁) 〈返信〉 ありがとうございました。 9月26日 えりっぷさんから、佐倉本情報あり 『朝日新聞記者 夏目漱石』(1994年 立風書房)の中に、浅井忠のことが少し載っていたのでお知らせです。 本書は夏目漱石について、何人もの研究者が文章を寄せており、その中の一人である匠 秀夫氏は「漱石文学と挿絵」という題で、「我輩は猫である」の最初は装丁が橋口五葉、挿絵が中村不折であったとしている。 しかし色々あって五葉にあてた漱石の書簡に「浅井の画はどうですか。不折は無闇に法螺を吹くから近来絵をたのむのがいやになりました」とあったということ。 「明治39年11月刊の『我輩は猫である』中編と40年5月刊の下編が、五葉の装丁で、挿絵(各3枚)が浅井忠となっているのはこうした経過によるものと思われる。 不折を挿絵描きとして子規に推薦したのは、浅井忠であり、留学の途次、パリで漱石は浅井を訪ねており、また浅井も、帰国に際して、ロンドンの漱石の下 宿に泊まって幾日かを過ごしていた。つまり不折を見切って、親友の知己である旧知の浅井に変えたのは、漱石の意向にほかならないのであるが、」(63頁)以下略。 とりあえずお知らせまで 9月9日 Mさんから佐倉本情報 いつもの様に一月分の読書で拾った、佐倉関連情報です。読書順です。 織田五二七著『栄城』(佐賀新聞社・平成12年刊) 本書は、相良知安、大隈重信、江藤新平の三人を軸にして佐賀の幕末明治を舞台にした小説です。ラストシーンは相良知安の亡くなる場面であり、従って松本良順が繰り返し何度も登場しました。 長崎には松本良順が相良知安を呼び寄せたと書いていました。筆者は佐賀・鹿島で病院院長を勤めた人です。 『維新日誌 第二期第三巻』(静岡郷土研究会・1934年刊) この巻収録の「公議所日誌」「集議員日誌」に、佐倉の依田右衛門二郎が登場します。依田学海ですね。明治二年の後半には依田朝宗の名前に変わっていました。 この異名は初めて目にするかもしれません。依田学海は幹事にもなって議論を導くような大活躍をしていました。ならば佐賀藩の公議人は誰だろうと調べたら、池田弥一と深川亮蔵でした。 残念ながら、議事録に彼らの名前は一度も登場しませんでした。 ところで、深川亮蔵の名前は『佐倉と印旛沼』に一度話題になっていました。 司馬遼太郎著『歳月』 これの「野路の村雨」に、老中堀田備中守暗殺を狙った人物として深川亮蔵の名前が出ていました。例によって『歳月』も未読でしたので、『佐倉と印旛沼』でこの作品のことを知り、慌てて読みました。 深川亮蔵は危険人物として国許に呼び寄せられます。晩年は鍋島家の家扶として活躍していました。出典は『鍋島直正公伝』だと思われますが、十八歳の年齢部分は司馬遼太郎の計算でしょうか。 緒方惟之著『医の系譜 緒方家五代』(燃焼社・2007年刊) 緒方洪庵、惟準、_次郎、準一、惟之の五代の小伝である。_次郎の部分には自伝『七十年の生涯を顧みて』からの紹介があり、それに、名前の_は父の親友に松本_太郎がおり、松本順は自分の母方の祖母の弟に当たるので父の惟準と松本_太郎は従兄弟同士であると書いていました。惟準の夫人よし(吉重)は松本順の姪になります。 _太郎の_の字を貰って_次郎と命名されたと書いていました。 吉川利一著『津田梅子』(中公文庫) 新古書店で珍しい本を入手したと思っていたら、重複本でした。折角だから、手持ちの本で、津田仙が登場する本を探したら、次の二冊がありました。 いずれも情報量の少ない記述です。日本英学史学会編『英語事始』(日本ブリタニカ・1979年刊)、高梨健吉著『文明開化の英語』(中公文庫・昭和60年刊) 小池忠雄著『或ル志士之生涯』(河出書房・昭和20年刊) 「セント・ヘレナ日記」はオランダ留学途上の榎本釜次郎や林研海・西周らがセント・ヘレナに寄航し、ナポレオン臨終の家を訪問していました。「ますらをが沖の小島に跡とめしむかしを照らす春の夜の月」と林研海の歌を紹介していますが典拠は何でしょう。 「万国公法」では、大阪城から十八万両を運び出した運び出した榎本釜次郎はこの中から三箱を拝領して和蘭に残った伊東玄伯、林研海、赤松大三郎らの為にその費用として送ったと書いていたが、史実でしょうか。 ブリュネを扱った小説もあり、その最後に林菫は明治三十四年英国公使として赴任した時再会したという。二人は函館戦争では反乱軍でした。 なお、加茂儀一著『榎本武揚』(中公文庫)で確認したら、大阪城古金十八万両の内三万両の下賜を請うて送金したと書いていました。箱三つ三千両とは桁が違いますね。 土居良三著『咸臨丸 海を渡る』(中公文庫・1998年刊) 本書を読んでいたら、咸臨丸乗組員紹介に小永井五八郎が出てきました。佐倉藩士平野知秋の弟であると書いていました。ネット検索したら、『佐倉と印旛沼』に既に情報は上がっていました。 『佐倉と印旛沼』の「佐倉にゆかりある人を探す辞典」の小永井五八郎の項目に、文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸』(中公文庫)を追加されては如何でしょうか。 土居良三著『咸臨丸 海を渡る』の該当箇所の出典は『幕末軍艦咸臨丸』からの引用でした。手持ちの中公文庫で確認したら、下巻の三百八十七頁に記事がありました。 長々と書き込みましたが、すべて辛うじての佐倉関連情報ばかりです。 〈返信〉 Mさんの読書量にに圧倒されます。 いつも、即答で返信を書いていましたが、もう、量が多くて即答できません。 改めて、返信をいたします。本日は、お礼まで。 9月8日 えりっぷさんからメールあり 3年ぶりで佐倉の花火が帰ってくると広報などで発表されました。そこで、佐倉の花火の歴史を調べはじめました。 『佐倉・国際印旛沼花火大会記念誌』(第一回から第十回までの歩み)1998年刊が一番詳しく載っているようです。その中で偶然ですが、自分の知らなかったことが載っていたので、ご報告です。 いろいろ花火に関する本を見てみると、江戸時代の和式の単色の花火から洋式のカラフルなカラーの花火が広まったのは明治12年ごろとあります。 ところが、「実は1875年(明治8年)に佐倉の下志津原で、明治天皇行幸に際し、日本で初めて洋式色彩花火が打ち上げられていたことが」(52P)、国際花火大会開催直前に発見されたということです。 平成元年5月17日付けの「千葉日報」に報道されたということで、詳しい記事が載っています。おもしろいです。 〈返信〉 ありがとうございました。佐倉と花火に関する情報は項目立てしましょう。 9月3日 佐倉本情報 板倉聖宣『科学者伝記小事典』(2000年5月 1900円 仮説社)脚気を絶滅させた軍医堀内利国は佐藤尚中に入門したとあります。 井森たかし『現代の縄文と弥生 長嶋茂雄 野村克也』(2006年4月 1100円 新風舎)長嶋さんと野村さんを縄文と弥生人に対比させています。 早川勇『愛知大学文学會叢書Xl 日本の英語辞書と編纂者』(2006年3月 6600円 春風社)英語辞書編纂と係わった人々の経歴に津田仙が紹介されています。 佐倉市民本情報 久遠由純『ネガティーバー達への詩』(2006年2月 1200円 新風舎)久遠さんはゲーム系同人作家で佐倉市在住です。 以上は、グーグルのブック検索で探したものです。便利ですね。 9月2日 Uさんからメールあり いつの間にか8月も終わってしまいましたね。今月号(9月号)の『彷書月刊』に高橋真琴さんのインタビューが載っています。 今月の同号は「マンガ少女の30年代」という特集です。 高橋さんのインタビュー記事は 『ここ(佐倉)に越してきたのは、28、9の時です。当時のことですから、駅に降り立つと深呼吸ができるような空気でした。』で始る貴重なインタビューで佐倉にある真琴画廊で行われました。 〈返信〉 ありがとうございました。高橋さんは、女の子(女性)を描く作家として知られております(「新聞記事」の項目、2006年7月13日参照) さっそく、探してみます。 9月1日 Kさんからメールあり ご無沙汰しております。いかが、お過ごしでしょうか?長い夏休みも終わってしまいます。 あまりマンガは読まないのですが、昨年『3丁目の夕日』という映画を観たので、たまたまブック・オフで買ったものですが、同名の原作のマンガに、「佐倉」の名が入っていました。 一応ご報告まで。数え歌になっていたのですね。私は全く知りませんでした。 もう一つ。 澤瀉久孝『萬葉集注釋』巻第十四、この巻は東歌が載せられています。3529番の歌、等夜(とや)の野に兎窺はり(をさぎねらはり)をさをさも寝なへ子故に母は嘖はえ(ころはえ)、 訳は、「等夜の野で兎を窺っているのではないが、をさをさも、ろくに寝もしない子のために、お母さんにおこられて」、難解な歌です。略解に「又和名抄、下総印幡郡鳥矢郷有り、そこか」ともある、と書いてあり、萬葉集略解は江戸時代の国学者加藤千蔭(1735〜1808)の本です。 「等夜」は、地名か普通名詞か不明の言葉ですが、下総郡の地名という説は実は恥ずかしながら初見で、調べてみると結構小学館古典文学全集などには頭注に出ていました。 「鳥矢」とは佐倉市鏑木となるようです。佐倉の鏑木を舞台とした万葉歌があったとは驚きでした。この和名抄の地名の比定について、どなたか詳しい人はいらっしゃいませんか? 澤瀉久孝は「鳥矢」が、地名を表すか、または普通名詞で「鷹をあはせんとて柴などをさして隠れをるを田舎にて鳥やといふ、そを転じて獣とるためにするをもしかいへり、さるわざする所を即鳥屋の野といふなるべし」とする、 『萬葉考』賀茂真淵説も同じ本で紹介しています。一応、「鳥矢」説を紹介している、加藤千蔭『萬葉集略解』、澤瀉久孝『萬葉集注釋』巻第十四と、小学館古典文学全集4『萬葉集』3は佐倉本になるのかなと思いますが、いかがでしょうか? 〈返信〉 『3丁目の夕日』に佐倉という文字が出てくるなんて知りませんでした。ただ、これは佐倉宗吾の佐倉でしたね。それから、数え歌は知っていました。 「鳥矢」とは佐倉市鏑木といわれていますが、確定した史料はないと思います。たぶん「現代の地名に比定すると、カブラヤに近い地名として鏑木」というところに落ち着き、それが通説になっているのではないでしょうか。 あるいは、否定するものもない、という意味も込めて。 その意味で、確かに佐倉本です。 それはそれとして、萬葉集以外にも佐倉が出てくる本があります。でも、それらまで探していくと切りがなくなっていくでしょう。 歴史の資料(特に中世以降)は研究書が多く出されており、佐倉に関した地名が出てくる本が有りすぎるということでもあります。 たぶん、「古代 佐倉本」「古典 佐倉本」「中世 佐倉本」「近世 佐倉本」「近代 佐倉本」という区分けが必要となってくるでしょう。 そのようなことで、「古代 佐倉本」〜「近代 佐倉本」については、Kさんが紹介してくれたような原著であれば掲載しますが、現代の研究書については研究者に任せたいと考えております。 ただし、2000年以降に刊行された研究書については掲載をいたします。 8月15日 佐倉本情報 『千古不易 〜東京鎮台佐倉営所病院のあゆみ〜』(2007年4月 東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会) 2007年4月、国立歴史民俗博物館がある佐倉城址公園の一角に、「明治 大正 昭和 平成の四世に亘る佐倉射醫のこころ 茲に遺す 仁の心を腎に」という碑が建立された。 佐倉は明治6年に軍隊の営所が置かれるところとなり、翌年、東京鎮台佐倉営所病院が創設された。以来、病院の名称は何度か変わったが地域医療に貢献をしてきた。2004年、聖隷佐倉市民病院として経営移譲される。 この間の変遷を綴った記念誌で、佐倉衛戍病院から陸軍病院時代の話が詳しい。 8月10日 〈Mさんへのメール 8月7日の続き〉 『明治18年の旅は道連れ』を購入しました。 読みましたが、佐倉に来たのは、単なる通過点であったと思いました。理由ですが、佐倉に来る前に成田、佐原、鹿島に寄っています。これは観光ルートです。 また、船を使えば、北浦から一気に利根川まで来られますから、体力的にも楽であったと思います。 佐倉が単なる通過点でしかなかったとはいえ、このような旅のルートの記録があったことを知り勉強になりました。 8月7日 Mさんからメールあり 「佐倉と印旛沼」を拝見しました。採録のご配慮感謝申し上げます。『明治十八年の旅は道連れ』以外は佐倉本にもならないと思っていましたので、長文引用には少々驚きでした。 塩谷和子著『明治十八年の旅は道連れ』(源流社・2001年刊)に関する興味深い考察有難う御座います。美加保丸をネット検索したら、中根香亭の名前がありました。彼も伊庭八郎らと共にこの船に乗っていたのですね。 さて、『明治十八年の旅は道連れ』には、旅の目的として伊勢参りとしか書いていなかったと思います。 本街道を通らずに、佐倉を通過した理由ですが、前年に秩父事件が起きていたことと関係はないでしょうか。この旅の道連れは商人ばかりでした。商工会議所の研修旅行なら、事件現場を避けるという選択肢も考えられそうです。 しかしこれには秩父事件の現場を通ると言う前提が付きますが、例によって地理的なことは私には分かりません。亦、事件後半年経過していたのに避ける理由があったのでしょうか。 旅費等については、成田から佐倉までの雨中三里を人力車で三十銭の賃金であり、駿河屋の宿賃は二十銭でした。 先のメールを出してから岡鬼太郎の花柳小説を読んでいました。明治四十一年元旦の発行の『もやひかさ』の「ひだり馬」に佐倉炭が出てきました。 福引に当てた佐倉炭を運んできた酔っ払い客が泊まった翌日その炭で風呂を沸かせて入ると言う酔狂を描いていました。佐倉炭は此の頃には普通に流通していたようです。 とまれ、芸者の客になるのも大変な努力が要ったようです。濫読は濫読ですが、強いて理屈を申すなら、岡鬼太郎の父親である岡喜智は佐賀藩士で遣欧使節の一員でありました。 〈返信〉 続けて、ありがとうございました。感想を考えています。 8月6日 〈Mさんへの返信 2〉 いつも情報をいただきまして感謝しております。また、佐倉本探しから、Mさんのご研究につながるような情報も手に入れられたということで、誠に結構な話です。 今回、塩谷和子著『明治十八年の旅は道連れ』(源流社・2001年刊)に興味を覚えました。駿河屋は佐倉きっての旅館であり、連隊関係者である師団長一行などの宿泊にあてられていました。 どうして、会津猪苗代の連中が、伊勢参りの途中佐倉に一泊したのかがわかりません。当時(今も)、会津から江戸に向かうのに、佐倉を通過する街道はありません。 詳しくはわかりませんが、ほとんど日光街道か常磐道を使うのではないかと思います。 ただ、松本良順は戊辰戦争時、会津に向かうにあたっては、江戸ー佐倉ー利根川ー銚子ー平潟という船のルートで会津に向かいました。しかし、これは官軍の目から逃れるためのルートであり、通常のルートではなかったと思います。 もし、平潟から船で江戸に向かうとすると、銚子から利根川を遡り、木下で降りて、そこから徒歩で行くのが多かったのではないでしょうか。あるいは、さらに利根川を遡るということもあったでしょう。 この場合、佐倉通過はありません。 どうして船で房総沖を回らずに利根川を遡るのかということですが、利根川が海に流れ出る河口付近は潮流が不安定になり、船の難所であったといわれています。 やはり、海よりは川の方が波が静かで、遭難しても岸にたどり着きやすいということでしょう。 そのようなことで、東北から船で来る場合には、利根川を遡って江戸に向かうコースが多かったのです。 なお、戊辰戦争時、榎本武楊が軍艦を率いて箱館に向かうとき、銚子沖で美加保丸が遭難をしてしまいますが、まさにこの場所でした。 そのようなことで、江戸・伊勢に向かう通常ルートをはずれて南下し、佐倉に来るには、佐倉に来るための目的があったのではないかと考えます。 その理由として考えられることですが 1、幕末、会津藩から蘭医学の修業のため、何人かの人が順天堂へ入門しています(『順天堂史』)。しかし、明治になって会津藩士は旧南部藩領に転封されますので、 会津猪苗代の連中とは違うかも知れません。ただ会津藩○○と書いてあっても、藩士でないかもしれません。これがわかりません。 2、『順天堂史』には、会津幸田新田の平井浪江という人物の名前があります。この幸田新田が会津のどこにあるのかわかりませんが、藩士ではないようです。 だとすれば、明治以後も会津にいた可能性はあります。伊勢参りの途中、懐かしいからと寄っていきたいという話もありですね。 3、明治9年、東京で不平士族の反乱として思案橋事件が起こります(事件は未遂に終わります)。この関係者が会津の人で、佐倉鎮台に向かうという計画でした。 佐倉連隊には会津出身の兵士がいたため、彼らの計画に賛同してくれると、かってに考えていたんですね。 これから想起することは、佐倉連隊には会津出身者もいたということです。つまり、佐倉に来れば入隊している身内の人に面会できたということです。 兵士は休日には佐倉の街に出て慰労ができました。 これなら、あえて1泊多く泊っても(当時とすれば、大変な負担だったと思いますが)納得したのではないでしょうか。 ・・・これが心情からすると、一番近いかも知れませんね。 とりあえず思いつくままに。 8月5日 Mさんからメールあり この一月の読書から佐倉関連記事を拾ってみました。 文殊谷康之著『渡邉洪基伝 明治国家のプランナー』(ルネッサンスブックス・2006年刊)に、越前府中に生まれた渡邉洪基が元治元年に佐倉の順天堂塾に移り、講師に推されていました。彼は初代帝国大学総長でした。 勝部真長著『王者と道化師』(経済往来社)は、原敬と中井弘を取り上げた評伝です。中井弘の娘と原敬は結婚しています。グランド将軍来日の祝宴で酔っ払った中井弘が文部大書記の西村茂樹と口論になりビール瓶で殴ったという記事がありました。工部省時代の話には、書記局長の林菫も一瞬出てきました。 林菫については、鳥谷部春汀著『春汀全集』の「明治人物月旦」に「新外務大臣 林菫子」がありましたが、いずれもこれらは佐倉本になりそうもありません。 手持ちの、森銑三著『明治人物夜話』(講談社文庫)を点検していたら、依田学海記事がありました。但しこれも特別な記事ではありません。 亦、三条実美の病気を佐藤尚中が診る場面がどこかに出てきましたが、メモもなくどの本に書かれていたのかすっかり忘れています。 卑近の読書では、塩谷和子著『明治十八年の旅は道連れ』(源流社・2001年刊)に、会津猪苗代の連中が、伊勢参りの途中佐倉に一泊していました。「駿河屋又兵衛」殿に泊まっています。会津・水戸・佐倉・江戸は当時の街道ルートでしょうか。 『大久保利謙歴史著作集5巻』は「幕末維新の洋学」ですが、ここに五代友厚の「廻国日記」の翻刻がありました。パリで西周らの留学生に会う場面もありましたが、記事は饒舌ではなく、「今般和蘭へ来りし、幕生両人当舎へ来る。」だけでは会話の内容までは分かりません。幕生両人は西周と津田真道です。 『蜀山人全集 第三巻』(日本図書センター)を繙きましたら、「瓊浦雑綴」に本蓮寺の大乗院の桜の花期が長いという記事がありました。調べたら、太田南畝も大乗院(本蓮寺)に宿泊していたことがあるようです。文化二年三月四日に緋桜が咲き始めて、三月十八日まだ散らずに咲いていると書いていました。陽暦に計算し直したら、四月三日から四月二十一日でした。長崎で四月下旬の桜とは信じられないです。これも温暖化の影響でしょうか。 最後に、先月所蔵情報を御教示して貰った、関寛斎の『長崎在学日記』を入手しました。陸別町教育委員会に連絡したら、『陸別町史 史料編』に翻刻がありますとの返事がありました。佐倉関連記事としては、万延二年正月九日の条に「昨日ノ朝 佐メース薩ノ軍艦ニ乗ル」がありました。この薩摩の軍艦には五代友厚が乗り込んでいたと想像されますが、何ともあっさりとした記述でした。 以上がこの一月の読書から拾った佐倉に関連する記事です。 〈返信〉 実に多くの書をお読みになっていますね。私も励まされました。なお、私の感想は後日。とにかく量がすごくて・・・。 7月9日 駕篭舁さんから佐倉本情報のメールあり 野口武彦『大江戸曲者列伝』幕末の巻(2006年2月 新潮新書)を買って来て読みました。 その中で堀田正睦をとり上げ、「口べたの老中」という見出しで、5ページ(23頁〜28頁)ばかりの文章を書いています。日米修好通商条約をめぐって、ハリスとの会見の様子や 勅許を得るために上京した時の公卿らとのやりとりを通じて正睦の人物像を著しています。 「訥弁なのでずいぶん損をしていた。愚鈍なのではない。情勢はよく見えていたし、決断力もあった。ただ、いざという場合に生来の口べたが邪魔をするのである。」 などと書かれています。 公卿らとの話のやりとりなど、裏づけとなる文献などが残されていたのだろうかと気になりました。 〈返信〉 ありがとうございました。 7月8日 Uさんから佐倉本情報のメールあり 僕は昔から畠山清行の実録歴史物が好きで愛読してきました。先日新潮文庫版の畠山清行著『秘録 陸軍中野学校』を読み返していたところ、思わぬところに、千葉佐倉第57連隊のことが出ていました。 少々長くなることをお許し願えるなら、紹介したいと思います。 「たとえば、その中の一人、小林美文大尉(終戦時中佐)は、日中事変勃発当初の昭和12年8月、歩兵第三連隊の中隊長として、錦州から熱河を横断、張北から万里の長城を超えて張家口に攻め入った大作戦に従軍していた。この(略)迂回作戦は、のちに映画にもなった。 (略)そのころ、満州に移駐して泰安鎮にあった第一師団の歩兵第一連隊と歩兵第三連隊、それに千葉県佐倉の第57連隊の一大隊、大阪の野砲第四連隊で、応急派兵の旅団を編成したもので、数十倍にあまる敵軍の真っただ中へなぐり込み、現役兵の強さ遺憾なく発揮した戦いであった。 (略)また、同時に中野入りした川島威伸中尉も、佐倉第57連隊朝生大隊大十中隊の小隊長(当時少尉)としてこの戦闘に参加し、張家口の手前の八角台で威力偵察を命ぜられた。八角台は、敵がこの日にそなえ、山麓から頂上まで岩石を掘り抜いて築いた幾十段のトーチカ陣地で、全山これみな敵の堅塁である。」 という張家口の戦いに佐倉第57連隊が出てきます。以上、紹介でした。 〈返信〉 ありがとうございました。これで、これまでもやもやしていたことが、すっきりしました。 映画「陸軍中野学校」の冒頭、主人公がスパイになる前の連隊が映し出されます。その連隊が歩兵第57連隊でした。つまり、佐倉の第57連隊の士官候補生がスパイになるという話です。(「映画」の項目に詳細があります) 映像は、ほんの10数秒だけ、連隊の看板を写しました。佐倉にこだわっていなければ、見過ごしていたでしょう。しかし、増村保造監督は、どうして主人公を歩兵第57連隊の士官候補生に設定したのかということがわかりませんでした。 でも、映画のヒントになる話が57連隊にあったんですね。さっそく本を購入することにします。 それから、この迂回作戦の映画の題名は、どのようなものだったのでしょうね。 ついでではありますが、勝新太郎が主人公の映画「兵隊やくざ」が気になっています。 勝が演ずる大宮貴三郎が配属になった連隊名はわからないのですが、話は満州に移駐した第一師団の歩兵第一連隊か、歩兵第57連隊でないかと考えています。 映画では、東京から来たと話していますが、軍旗がぼろぼろで、縁しかありません。この軍旗は佐倉連隊のような気がするのです。 この映画は有馬頼義の小説「貴三郎一代」を、増村保造監督がつくったものです。何かありましたら教えてください。 7月3日 駕篭舁さんからメールあり 既にご存知かもしれませんが、フランス人のブスケが書いた日本見聞記の一部で佐倉のことが出てきます。 六方原で有栖川宮閲兵の砲兵射撃演習を見学の途次に、佐倉の町と成田山を訪問しています。 おそらくは、外国人で初めて佐倉に入り、初めて佐倉を記述した文章ではないかと思いますが。 野田良之・久野桂一郎共訳『ブスケ日本見聞記1 フランス人の見た明治初年の日本』(1997年6月 みすず書房) 「佐倉は封建時代の城であり、歴史上は城主らの倣岸さで有名であり、文学では その城壁がその証人である数々の芝居で有名である。そのシロについては、今日 では堅固な城壁と腐った水のたまった堀しか残っていない。この堀ではこの場所が 禁猟区になっているため保護されている鴨がおだやかにとび回っている。・・・・・」(P162〜 ) 「再び佐倉を通ったときにぶつぶつ言う声が我々の耳に聞こえてくる。そして江戸では もう聞かれなくなった「唐人、ペゲ」(外国人、行っちまえ)という叫びがそれ以外の敵意 はみせずに我々を追いかけてくる。」(〜P164 ) などとあります。ブスケは、日本政府の招聘で1872(明治5年)に来日、司法・立法など 法の問題で政府の顧問役を勤めたとあります。ルボンと同時期に滞日しています。 〈返信〉 『ブスケ日本見聞記1』については、佐倉市教育委員会の発行している雑誌「風媒花」に紹介されていましたので把握していました。アーネスト・サトウも佐倉について書いています。いずれ、佐倉を訪れた外国人ということで紹介しようと思っています。 7月2日 佐倉本情報 雑誌『大人の遠足マガジン』(2007年7月 980円 JTBパブリッシング)古道探訪A「佐倉道」として、佐倉が見開きカラーで紹介されていました(114頁)。 6月28日 佐倉本情報 『千葉大学附属図書館亥鼻分館 古医書コレクション目録』(2007年3月 千葉大学附属図書館亥鼻分館) コレクションの経緯によれば、その起源は千葉医科大学の伊東弥恵治眼科学教授が大正末年に眼科を中心とする東洋医学、とりわけ江戸時代の 中国眼科の古書に関心を持たれ、その収集に乗り出されたことにある。 コレクションには、佐倉順天堂にあった洋書、古医書400冊も収められている。この本は「順天堂佐藤本」と分類されているため、本を拾えば 佐倉順天堂にあった蔵書の一端がわかるだろう。 カラー図には「ポンペが松本良順に与えたサイン入り眼科書」がある。二人のサインがあることから、二人の信頼関係がわかる。 かわったところでは、森鴎外『陸軍一等軍医森林太郎普国禁軍歩兵第二聯隊・隊務日記』一冊(明治21年 陸軍々医学会)がある。解説によれば、 「森林太郎がプロシア(現ドイツ)国へ軍医として留学した折の現地部隊で勤務実習の様子を記したもので明治21年から7月2日までのことが書かれ後半の 付録として独文の資料が入っている。」。本書は非売品であるが、佐倉順天堂にあった。 このように、各医書には平易な解説文がつけられているのでわかりやすい。 6月22日 Mさんからメールあり 本日は貴重な「諸藩文武脩行者姓名録」からの佐嘉藩士名簿のご教示有難う御座いました。記録はあるところにはあるものですね。 佐賀県立図書館には人名データベースがありますので、それぞれの名前を検索してきました。通称名が多かったようですが、一応県史や市史などの地方史関連図書や藩日誌等に記録がありましたのは次の方々です。 吉村久太夫、大野藤七、横尾小次郎、長森伝次郎、早田卯右衛門です。但し、早田卯右衛門はどうも時代が合わない記録でしたので、別人かと思います。何れも著名な人ではなく一介の武士達でした。 本日は「着到帳」まで確認できませんでしたが、「着到帳」類まで参照すればもっと名前は確認できるかと思います。 この中で、大野藤七の武術の腕は確かだったようです。森銑三他編『随筆百花苑』第十五巻(1981年6月 中央公論社)に、近世佐賀の諸芸諸道を紹介した本『雨中の伽』が収録されていますが、「柔術」の項に「大野藤七能す」とあります。 佐賀藩の剣術ではタイ捨流が有名ですが、鉄人流も種田流槍術も『雨中の伽』に出てきました。 なお、佐賀と佐嘉の地名の件ですが、昔は佐嘉と書いていました。この場合濁らずに「さか」と呼んだようです。現在でも佐嘉神社は昔の文字をあてています。 〈返信〉 早々に調べていただきまして、ありがとうございました。剣術には、いろいろな流派があったようですが、鉄人流とはすごい名前ですね。どのような構えをしたのか想像したくなります。 これからも、よろしくお願いします。 6月20日 佐賀にお住まいのMさんから佐倉本情報のメールあり 原田伴彦著『道中記の旅』(芸艸堂)、道中記ならばと手に取りましたら想像通り佐倉が登場しました。 また、森銑三他編『随筆百花苑』第十三巻(1979年11月 中央公論社)に幕末の佐賀藩士牟田文之助高惇の全国武者修行の旅日記が収録されています。 ここに、安政元年四月に佐倉を通過した記録があります。佐倉城下新町の油屋に泊まり、佐倉藩文武方役人の浅井仙之助の斡旋で藩士ら四十人と稽古をし、宿に戻ってから、蘭医佐藤泰然が藩主の乗馬に去勢手術をしたという噂話を聞いていました。佐倉本にはならないかと思いますが、一報しておきます。 〈返信〉 幕末の佐賀藩士牟田文之助高惇の全国武者修行の旅日記に興味を覚えました。 『佐倉市史』巻2には、全国から武者修行に訪れた人の名前を記した油屋の宿帳「諸藩文武脩行者姓名録」が掲載されています(1474頁)。記入は嘉永3年7月から明治3年10月まで、780余名が記されています。 この「諸藩文武脩行者姓名録」に牟田文之助の名前がありました。牟田文之助の旅日記と、宿帳の名前が一致しました。佐倉の記述も気になりますね。文之助はどのようなことを記したのか。さっそく『随筆百花苑』第十三巻を読むことにします。ありがとうございました。それから、ついでですが他の佐賀藩士の名前もお送りします。 各藩士の名前が連なっている日もありますので漏れ落ちがあるかもしれませんが、知っている藩士がおりましたら教えてください。 嘉永四年五月十五日着同十八日出足 肥州佐嘉藩、鉄人流二刀剣術吉村一郎太夫門人、吉村久太夫 嘉永七年四月八日着十日出立 肥州佐嘉藩、直心影流剣術白浜次郎左衛門々人白浜代四郎・斉藤弥平太外に家来一人 嘉永七寅卯月十六日申刻宿同十七日於学校□合同十八日発足 鉄人流二刀兵法、信州上田藩士石川大五郎、肥州佐嘉藩牟田文之助 嘉永七年四月廿九日 肥州佐賀藩種田流槍術中川吉左衛門々人、伊藤辰之助、大野藤七 安政二年六月二日着同月五日 肥州佐嘉藩木原敬四郎 安政三年四月十二日着同十四日朝発足 肥州佐嘉藩、種田流槍術中川吉左衛門々人野口六太夫 直影流剣術白浜次郎左衛門々人相良雄蔵 安政三年五月廿七日夕下程、六月朔日未刻上程、右者学生也 肥州藩、横尾小次郎・長森伝次郎 安政五年六月廿日晩七ツ半着翌廿一日稽古相願耐廿二日朝発足 肥州佐嘉藩、宝蔵院流槍術 同藩早田卯右衛門々人 西牟田忠吾 ★★★ 佐倉藩には幕末、全国から他流試合に訪れる人を泊めるための宿屋「油屋」がありました。この宿帳には、佐倉を訪れた藩士の名前が記されています。 各藩で、心当たりのある藩士がおりましたらお知らせください。また佐倉を訪れた旅日記などがありましたら、教えてください。 6月15日 佐倉本情報 雑誌『風媒花』第20号(2007年3月 300円 佐倉市教育委員会) 濱島正士 「重要文化財旧堀田家住宅」指定記念講演会 黒住耐二 井野長割遺跡と古環境 佐倉市教育委員会 佐倉の石碑 『印旛の原始・古代 縄文時代編』(2007年3月 財団法人印旛郡市文化財センター)カラー写真と図版が多くあり、見やすい。 佐倉市関係では、【早期】間野台貝塚、【中期】神門房下遺跡、吉見稲荷山遺跡、生谷松山遺跡、【後・晩期】遠部台・曲輪ノ内貝塚、井野長割遺跡、 吉見台遺跡、宮内井戸作遺跡が紹介されています。 6月6日 『完全復刻 杉亨二自叙傳』(1918年刊行 2005年復刻 日本統計協会)を実見。「江戸に着て、永田町の大村邸内村田の所に数日居つた、其内に先年長崎で上野に居た 手塚律蔵と云ふ人が余を世話しなければならぬ事情もあった、其人が丁度江戸に来て居るので尋ねて行った、手塚は其時分、堀田の屋敷に頼まれて往て居た、堀田の屋敷は 今の新富座の所だが、其所へ手塚が来てくれと云ふ事であったから行た、手塚は堀田の家来に蘭書を教えて居た、余は其所に飯を焚て居た、其頃西村茂樹だの木村軍太郎だ のと云ふ人が手塚の所へ稽古に来た。」(15頁) 年表によれば、その年は嘉永三年(1850)二月とある。 5月29日 以前、Mさんから情報のあった、塩村耕著『こんな本があった! 江戸珍奇本の世界』(家の光協会)、野崎左文著『増補 私の見た明治文壇2』(平凡社・東洋文庫)を手に入れ、確認しました。Mさん、ありがとうございました。 本の詳細は、「佐倉本」項目の5月12日付けに収納されています。 5月21日 えりっぷさんからメールあり サクラオグルマの発見者与世里盛春さんについてやっと略歴が載っている本を見つけました。『植物文化人物事典 江戸から近現代・植物に魅せられた人々』(2007年4月 日外アソシエーツ株式会社) 「明治23年4月17日〜昭和51年8月20日 教育者、植物研究家 小御門農学校校長沖縄県出生。沖縄師範学校卒。千葉県の成東中学校教頭を経て、昭和14年同県小御門農学校校長となる。 牧野富太郎の指導を受け、独自の博物教育を実践した。県中学博物研究会などの結成に参加する。郷里・沖縄の研究書も残した。著書に「千葉県の植物」「大和民俗の由来と琉球」など。」(559頁) また、『千葉県大百科事典』で与世里さんの更に詳しい経歴を発見しました。『千葉県立中央博物館10年のあゆみ』の中で大口寄贈一覧の項目の最初に与世里さんの名を発見。 国会図書館のホームページのテーマ別調べ方案内という項目を発見しました。科学技術という項目の中に植物の学名を調べるためのインターネット上の情報源というのがありました。 いくつかのホームページでサクラオグルマを検索したのですが、「BGPlants和名ー学名インデックス(Ylist)植物名検索」の検索でサクラオグルマといれたらInula x Yosezatoana Makino,nom.nud とでてました。一人満足の日々です。 〈返信〉 ありがとうございました。 5月20日 4月30日付けの千葉日報に、千葉日報主催の第50回千葉文学賞が発表され、並木さくらさんが見事受賞された。小説の題名は「別れの輪舞曲(ろんど)」。 この並木さくらさんの、もう一つのペンネームが黒田碧、そう満開佐倉文庫に2年7ヶ月にわたって連載小説「城下町慕情」を執筆してくれた人です。おめでとうございます。 わが文庫の執筆陣に並木さんのような人がおり、うれしくなります。 文庫の目的の一つに、「佐倉と印旛沼に愛着を持つ人が執筆することを応援する」とあります。文庫でも応援できてよかったなあと思いました。これからも、益々のご活躍を期待しています。 それから、また文庫に佐倉が出てくる小説を書いてくれるようにお願いしよう。 5月19日 Mさんからメールあり 長崎県立図書館には戸辺秀著『仰ぎ見る大樹』(健友館)があります。杉亨二を主人公とした伝記です。 手塚律蔵を訪ねたところに門人の西村平太郎を紹介される場面が出てきました。また杉亨二が江戸城開城間近に勝海舟邸を尋ねたら、先客に松本良順が居たという場面もありました。 多分『杉亨二自叙伝』を種本とした伝記だと思われますので、『杉亨二自叙伝』が出典になる話でしょうか。 R・P・ドーア著『江戸時代の教育』(岩波書店)に、佐倉藩が何度も登場しました。藩校の校風や、成績如何によっては世禄の削減もあると紹介されていました。これは佐賀藩も同様です。 嘗て司馬遼太郎が『歴史と小説』の中で「日本史のなかで暮らして思うこと」で<この気違い勉強>と佐賀藩の弘道館の例を挙げていました。 堀田正睦が蘭学教育を始めるように命じたともありました。その名前はありませんでしたが、調べたら鏑木仙安と西淳甫でした。御存知だと思いますが、『日本教育史資料』の第一巻に「旧佐倉藩」の記録があります。 〈返信〉 さっそく、本を探すことにします。 発行された年代は少し古そうなものもありますが、佐倉藩を考える上で基礎となる本ではないかと考え紹介させていただきます。 5月18日 Mさんからメールあり 大隈重信の足の切断手術をした人が順天堂の佐藤進だったとは知りませんでした。手持ちの本で、榛葉英治著『大隈重信』(新潮社)で確認したら、麻酔をベルツが担当したとありました。 当時の豪華メンバーの手術医陣です。山ア光夫著『風雲の人 大隈重信 青春譜』は青春編の伝記のようです。作者は佐賀にも取材に来ていました。 〈返信〉 情報、ありがとうございます。Mさんは佐賀にお住まいですから、大隈重信の地元でしたね。これからも佐賀や長崎の情報を教えてください。 インターネットって、すばらしいですね。これからも、よろしくお願いします。 5月17日 為永春江は佐倉とかかわりのある人物で、明治初期に戯作者として名が知られていたこともわかってきた。 ただこれまでの佐倉の資料では為永春江という名前が見当たらない。為永春水の弟子としてのペンネームであろう。本名が知りたい。それと、佐倉のどこで生まれ(佐倉藩士であれば、江戸かも知れぬ)、 晩年は佐倉のどこに住んだのだろうか。 情報をお待ちしています。 5月16日 小池藤五郎著『愛書家のつぶやき』(1961年 桃源社)を古書店から入手。さっそく、為永春江が出ていると教えていただいた「裏表の見返しに各種番付表が意匠として載っていました。」を見る。 ところが、意匠として掲載されているので文字が小さく、薄く(灰色)、加えて番付表が逆さまに掲載されていたりして読みづらいこと甚だしいレイアウトになっています。 このような見返しまで目を通したMさんに感服しました。 5月15日 Nさんから佐倉本情報あり 山ア光夫『風雲の人 小説大隈重信青春譜』(2007年5月 1700円 東洋経済新報社)日本の政党内閣を組織し、早稲田大学を創設した大隈重信は爆弾テロにより、重傷を負う。大隈の足の切断手術をした人が順天堂の佐藤進であった。 「池田は佐藤進医師に執刀役を命じた。佐藤進はまる6年間の長期ドイツ留学を果たしたエリートで、陸軍病院や東大医学部第一医院長などに出仕し、順天堂医院の経営に当たっていた。44歳の働き盛りで、外科医学界の第一人者だった。 この日、大日本医学会創設のため相談会を医学者たちと開いていた会食中だった。その席から人力車で外務省に駆けつけていた。高木、橋本、池田の三人が手術の助手を務める豪華布陣となった。」(28頁) 池田とは池田謙斎で宮内省一等侍医、高木とは高木兼寛で海軍軍医総監(妻は佐倉藩に仕官した手塚律蔵の娘)、橋本とは橋本綱常で陸軍軍医総監(順天堂門人)です。 5月13日 峠の釜飯さんから佐倉本情報のメールあり 雑誌『散歩の達人MOOK 京成線完全案内』(2007年4月 880円 交通新聞社)「佐倉歴史散歩」というページがあり、佐倉で見学できる施設やお店が紹介されています。(64〜85頁) また、車だん吉さんの佐倉案内「車だん吉ぶらり旅」があり、お店として、かき揚げの「仙石ストア」と、佐倉名産の大和芋を食べさせてくれる「うざわ」が紹介されていました。 5月12日 Mさんからメールあり 思いがけない本に、佐倉情報を得ました。四月新刊の、塩村耕著『こんな本があった! 江戸珍奇本の世界』(家の光協会)です。岩瀬文庫の悉皆調査を行っている学者の稀覯本珍本紹介の本です。 「賞罰林翁筆記」の項に、江戸時代の鬼畜の一例として水戸藩士勝谷蔵之進の紹介記事があり、この悪党が安永6年佐倉の医師佐藤正安の弟子になり、師の正安を殺して正安の妻を連れ出して行方をくらましたとありました。 佐倉の医師の佐藤と言えば、順天堂を思い浮かべますが時代的に違っているようです。何か話が残っているのでしょうか。 順天堂関係情報では、渡辺實著『近代日本海外留学生史 上』(講談社)を読んでいたら、佐藤進がベルリン大学留学第一号だと出ていました。明治二年です。ドイツ医学導入を決定した相良知安と岩佐純は佐倉順天堂の塾生であったし、尚中の養子の佐藤進がドイツ留学第一号であったことは、順天堂医学と日本に於けるドイツ医学導入との結び付けは意外と深いものがありそうです。 以下余談です。小池藤五郎著『愛書家のつぶやき』(桃源社)を読んだら、裏表の見返しに各種番付表が意匠として載っていました。その中に「著述屋偽三九」があり、戯作者達の名簿の中に春江の名前が七番目に出ていました。春水が筆頭でした。 他の番付から明治十年頃作られたものかと想像していましたが、答えは案外早く分かりました。先に話題にした、野崎左文著『増補 私の見た明治文壇2』(平凡社・東洋文庫)に解答がありました。 「明治年間に於ける著述家の面影」の章に、これは野崎左文が明治十七年に今日新聞毎夕社在社時代に寄稿した「東京流行細見記」だとありました。明治十七年とは意外でした。晩年にも為永春江は文名があったと看做すべきでしょう。尚、「東京流行細見記」は国立国会図書館のデジタルアーカイブで確認できます。 〈返信〉 塩村耕著『こんな本があった! 江戸珍奇本の世界』、知りませんでした。ありがとうございます。佐藤正安という人物は、おっしゃるように順天堂の佐藤家とは違います。まったく知りません。佐倉には安永年間の資料は、ほとんど残っていませんが、記憶にとどめておきます。 『近代日本海外留学生史 上』は、把握していました。ベルリン大学への留学第一号のことは、『順天堂史』上巻に詳しく出ています。 順天堂では、新政府がドイツ医学を選択する以前に、すでに世界ではドイツ医学が主流を占めているとわかっていました。 これは、幕末、順天堂二代目の佐藤尚中が長崎に遊学し、オランダ人医師ポンペから医学を学んで佐倉に帰るときに、ポンペから教えられたものです。 尚中は蘭医学を学びに行ったのですが、ポンペから学ぶ蘭医学書はドイツの医学書をオランダ語に訳したものと気づいたのです。 尚中は佐倉に帰るにあたって、ポンペから2冊のドイツ医学書をもらいます。 佐倉に帰った尚中は、この書を訳し、ドイツ医学を教えたのです。これを学んだ人が相良知安と岩佐純です。 この書は、外科治療の本ですが、小版で携帯性に優れ、戊辰戦争のときに大いに役立ちました。 順天堂で学んだ門人は国許に帰ると、自分の仕える藩が幕府方、官軍方にわかれていました。そのようなことで、門人は敵味方に分かれて野戦病院で治療にあたることとなりました。 佐倉藩は幕府方であったため、鳥羽・伏見の戦いで傷を負い、江戸に帰ってきた会津藩士の治療に尚中、進があたっています。まもなく、佐倉藩は官軍に恭順をしめします。 会津を攻めるにあたって、各方面の病院長はほとんど順天堂の門人でした。また会津を守る医師団は、佐藤泰然の実子、松本良順ほか順天堂の門人でした。順天堂の親族、門人が幕府方、官軍方に分かれて治療にあたっていたのです。 戊辰戦争当初、幕府方として動いていた佐倉藩は、戊辰戦争後、日の目を見ませんでした。そこで、資料にはありませんが三代目の佐藤進はドイツ留学となったのだと思います。人が何かを決意するには、心を動かす動機が必要であると思うのです。 佐藤尚中は新政府に仕えたくありませんでした。また、新政府に意見を求められることもなかったのです。一方、官軍方であった相良知安と岩佐純は新政府に登用されます。 当時、日本はイギリス医学を採用するか、ドイツ医学を採用するか分かれていました。ご存知のことですが、イギリス医学の導入を進めたのが薩摩藩です。これは幕末からイギリス人医師が薩摩藩にいたというところからくるものです。 戊辰戦争に勝利した薩摩藩からすれば、イギリス人医師に恩がありますから、ことのほかイギリス医学を導入したかったのです。そのようなわけで、相良知安と岩佐純がいなかったら、日本はイギリス医学を採用していたことでしょう。 この二人の意見によって、尚中は再び新政府の目にとまります。 政府から、尚中に大学東校(現在の東大医学部)をつくるように依頼がきます。尚中は病気といって断りますが、病気でも東京に出るようにとの命令があり、仕方なく東京に出ます。そして、大学東校をつくり、運営が軌道に乗ると、東校をやめて私立の順天堂(現在の順天堂大学)を東京につくるのです。 返信メールゆえ、年代や書名を入れずに、歴史の流れを思いつくまま記します。 為永春江は、私が探している人物です。ありがとうございました。 5月1日 佐倉本情報 情報誌『LOCOL(ロコル)』Vol.0創刊準備号(2007年4月 エリート情報社)財団法人印旛郡市文化財センターの考古資料展示室が紹介されています(37頁) ★★★ 『佐倉市史研究』第20号(2007年3月 佐倉市) 【特集】旧堀田邸(重要文化財 旧堀田家住宅) 旧堀田邸の建築、その形式と系譜・・・濱島正士 旧堀田邸の庭園・・・田畑貞寿 後期堀田氏家臣団における縁組手当金について・・・藤方博之 「佐倉邸家扶日記」にみる堀田伯爵家・・・土佐博文 【講演録】 佐倉連隊と地域・・・一ノ瀬俊也 【資料紹介】 千葉県立中央図書館所蔵『釈奠(せきてん)儀略』について(2)・・・外山信司 【投稿】 佐倉新町の変遷・・・塚本良子 4月30日 私が会員である日本絵葉書会の会報20号に安井裕二郎という方が、手彩色の写真絵葉書はどこからきたのか」のタイトルで下記のような記事を発表されています。 「黒船が初来航(1853年)し、横浜が開港した1859年の翌年に横浜に初来日したアメリカ人のフリーマンなる人物が居留地で西洋雑貨店を開業する。このフリーマンがカメラを輸入してポートレート写真を撮影する写真業を始めたのが、日本での記念すべき最初の写真館で、廃業するまでの数ケ月間には、横浜に英語の腕試しにやってきた佐倉藩(今の千葉県佐倉市)の洋学者・大築尚志(おおつきたかゆき)の肖像写真を撮影し、写真に関心を抱いて写真機をフリーマンから購入した鵜飼玉川(うかいぎょくせん)が江戸・薬研堀(今の東日本橋1丁目)に影真堂の看板を掲げて開業した写場が日本人初・東京初の写真館となった。翌年には横浜で下岡蓮杖、長崎で上野彦馬が開業した。」 大築は陸軍中将まで昇任したと記憶していますが、ご労作の『写真に見る佐倉』p18には、松本良順が「上野彦馬の最初の人物モデル」と記載されています。したがって大築のほうが被写体になったのは早く、佐倉で一番早く写真に写った人ということになりましよう。 〈返信〉 そうですね。佐倉で最初に撮られた人は松本良順ではなく大築尚志であったことになりますね。この写真については、確か斎藤 多喜夫 『幕末明治横浜写真館物語』にも記されていましたね。 4月24日 佐倉本情報 『河川文化 河川文化を語る会講演集〈その23〉』(2007年3月 1000円 日本河川協会)日本河川協会が毎月「河川文化を語る会」を開催した講演録。 堀田和弘「湧き水の保全と活用『あれ これ』」で、印旛沼流域の湧き水の概要を述べている。 図録『没後80年 森谷延雄展』(2007年 佐倉市立美術館)佐倉生まれのデザイナー。彼の展覧会が佐倉市立美術館で開催されました。 4月23日 節の介さんからいただいていた佐倉本情報を、掲載するのを忘れていました。申し訳ありません。なお、シリーズ番号が記事表題に付され始めたのは(8)からで、(1)〜(7)は節の介さんが判断して付記したものです。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ1)」『国立千葉病院ニュース』第5号 所収 (2001年4月) 幕末から明治にかけての我が国の医療史に関する もので、佐倉にゆかりのある方々が随所に出てきます。 断片的に抜粋します。 今、日常使用している医学領域での史的実証を得ようとする場合、その当時の人々の自伝、日記のほかに講義ノート(日講紀文)、さらに受講生のノートがあればある程度の目的は望める。 その過程でanectoda(隠れた史実)がたまたま発見される。この「のり」、「線」の役目をするanectodaが史的人物に筋肉をつけ潤いを持たせるし、人物の理解にも三次元的再現にも役立つ。 そこで我が国の西洋医学揺籃期において、我々の先人医師がその導入修学にいかに苦心し工夫したのかanectodaの落ち穂拾いを試みたいと思う。 以下抜粋 ・安政4年11月12日、長崎奉行所 西役所内において医学開講、松本良順等が受講した。万延元年、小島郷養生所の地続きに医学所が設立され、佐藤尚中は、講義を分担し、・・・ 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ2)」『国立千葉病院ニュース』第6号 所収 (2001年7月) ・開国という難課題を背負った幕府はこの時期に、堀田正睦(老中、佐倉藩主)の存在も力して、「阿蘭陀医術兼学致候とも不苦候」と言わしめ、蘭方禁止令解除(安政5年7月3日)ももたらした。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ3)」『国立千葉病院ニュース』第7号 所収 (2001年10月) ・この年(文久元年9月20日)、長崎にて松本良順(30才)は「養生所」頭取となる。・文久3年7月良順が奥医師兼医学所頭取につく。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ4)」『国立千葉病院ニュース』第8号 所収 (2002年1月) ・幕末明治初期の西洋医学の揺籃期では、わが国医学教育の大半は佐藤泰然の一族門流によって行われたといえる。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ5)」『国立千葉病院ニュース』第10号 所収 (2002年7月) ・良順は江戸に戻り(文久2年)江戸医学所頭取 緒方洪庵を補佐した。この時期、奥医師の席をめぐって良順側と玄白側の間に確執があったとされる。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ6)」『国立千葉病院ニュース』第11号 所収 (2002年10月) ・良順の想いは、医学所は一般の医師養成を行い、軍医学校は陸海軍軍医養成を果たすという洋方医師団の結成を画いていた。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ7)」『国立千葉病院ニュース』第13号 所収 (2003年4月) ・佐倉順天堂にも頭蓋骨が一頭あって、佐藤進がこれにて学習し後年(明治4年)ベルリン大学へ留学して、ライトヘルト教授の頭骨実地試問の際、順天堂での学習が効して一番で通過したといわれている。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ9)」『千葉医療センターニュース』第17号 所収 (2004年4月) ・佐倉順天堂の創始者佐藤泰然、三宅良斎、林洞海ら大蘭医は、時勢の変化を洞察して蘭学から英学に切り替え、ヘボンの下にその子弟である佐藤桃太郎、三宅秀、林薫を派遣し、・・・。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ11)」『千葉医療センターニュース』第21号 所収 (2005年4月) ・今回は、政情混沌とした幕末期に、蘭学中心のなかで英語圏の医学を修めた三宅秀の生い立ちを、幕府の運営した番所調書の変遷、特に語学導入の経緯とともに、追ってみたいと思います。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ12)」『千葉医療センターニュース』第22号 所収 (2005年7月) ・三宅秀は、万延元年〜文久二年まで高島秋帆塾に入門し、英語を学ぶ。文久三年、16才、手塚律蔵に漢学、蘭学、英語を学ぶ。同時に立石塾に英語、会話半年習う。この間、自習にて解剖、生理、薬理、内科を英書にて学ぶ。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ13)」『千葉医療センターニュース』第23号 所収 (2005年10月) ・前号につづけて三宅秀とその近辺、とくに英語学の発展をみていきます。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ14)」『千葉医療センターニュース』第25号 所収 (2006年4月) ・続けて幕末洋学導入期における英語導入と調所、開成所を中心に述べたいと思います。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ15)」『千葉医療センターニュース』第26号 所収 (2006年7月) ・本稿では、三宅秀本人の「維新資料編纂会」での講演記録、「旧事諮問録」記載の旧幕外国掛目付 河田相模守?による口述記によって、秀の英語学、洋学、医学の発展をみていく。 ・逸話:伊藤俊輔(伊藤博文)らは西洋文明を賛美した手塚律蔵を、−律蔵は獣たる西洋人の使いで、卑しくもそのおこぼれは頂けない−、として襲った。 高澤 博「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ16)」『千葉医療センターニュース』第27号 所収 (2006年10月) ・三宅秀が英学所に通ったこと。三宅秀が加賀藩への出仕となること。 4月22日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 高澤 博「Anectoda −隠れた史実−」(シリーズ17)『千葉医療センターニュース(第29号)』(2007年4月)にて、が掲載されました。 断片的に抜粋します。・兄ボードウィンは文久2年9月から慶応2年秋までの3年半ばかり、長崎の医学校にて眼科学、生理学を主体に講義した。ヘルムホルツの検眼鏡持参し使用した。生徒には戸塚静伯(通称文海、静海養子)、緒方惟準(洪庵次子)、松本_太郎(良順の息)、池田謙斎、橋本兄弟、岩佐純など門弟は1.000人に及んだ。 〈返信〉 ありがとうございました。 4月14日 佐倉本情報 青木栄一『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』歴史文化ライブラリー(2006年12月 1700円 吉川弘文館)明治時代、日本各地に鉄道がひかれるようになったころ、鉄道はいらないという話があったというが、それは本当なのか?ということを考察した本。 「このように鉄道が谷に沿って走る場合、それよりも高い位置の河岸段丘や台地に都市が載っている例は日本に数多い。千葉県佐倉や三重県伊賀上野などでは、鉄道は町よりもずっと下に駅を設けている。」(46頁) 鉄道を忌み嫌ったという話は本当なのか、それとも伝説なのか?興味のある方はご覧ください。 千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 通史編 原始・古代T』(2007年3月 千葉県)千葉県における原始・古代の概観を記す中で、佐倉市にあった遺跡も紹介されています。一般の方にも読みやすい本です。 ちなみに、館主が撮った印旛沼の写真も使用されています。 4月2日 えりっぷさんからメールあり 生協ちばコープの機関誌『はらっぱ』4月号(2007年3月)「ビバちば」というシリーズ、今回は佐倉。「十一万石の城下町、佐倉を歩く」かわいい絵地図つきです。 〈返信〉 ありがとうございました。 3月30日 Mさんからメールあり 『梅雨の松風』が未見の文献だったとは意外でしたが、何よりでした。最近は各種データベースが充実して来ていますので、本当に有り難いです。 ところで、そのデータベースにも関係しますが、為永春江の生年月日と死亡年月日は判明しているのでしょうか。昨日、狙いを定めて、国立国会図書館のデジタルアーカイブから、関根只誠著『名人忌辰録』を閲覧しました。すると、「為永春江 明治二十年十二月廿日歿す」という一行だけの情報を見つけました。(『名人忌辰録』第1冊、43/51) ネット情報では、「私立PDD図書館」に、生死亡年を文化十四年と明治二十九年としてありました。『名人忌辰録』の発行は明治二十七年八月十五日ですから、まだ死んでいない人の死亡日を出す訳がありません。それで本日市立図書館で調べてきました。 どうやら「私立PDD図書館」の情報源は『日本近代文学大事典』(講談社)であるようです。「文化14年・?〜明治29年・?」とありました。為永春江の項目は興津要の執筆でした。亦、例の野崎左文著『私の見た明治文壇1』(平凡社)の「明治初期に於ける戯作者」に、「為永春江 知久氏?明治廿九年歿、年七十九」と出ていました。嘗ては明治二十九年死亡説が広まっていたようです。 ところで、比較的新しい人名辞典を繙きましたら、『日本人名大辞典』(講談社・2001年刊)に、文化10年の生年で、明治22年12月26日死去となっていました(1813−89)。これは、関根只誠の『名人忌辰録』記載の死亡日とも違っています。この項の執筆者は分かりませんが、この日付の典拠は何でしょうか。 二つの死亡日が出てきましたから、もし確認するとしたら、当時の新聞から死亡記事を見つけるしかないと思います。為永春江が記者であった「絵入朝野新聞」や執筆していたという「東京絵入新聞」あたりはどうでしょうか。忘れ去られた作家であれば、死亡記事もない可能性があります。当地の公立図書館レベルでは復刻版やマイクロ版を含めて新聞資料が限られています。 最終的には、国立国会図書館へ地元図書館を通じてレファレンスして貰う方法がありますが、地元の人からのレファレンスが頼み易いでしょうか。 もし館主様の調査で既に判かっているのなら、御示教下さい。とまれ、何か出てきたら良いですね。館主様の為永春江研究の成功を冀念します。 〈返信〉 ありがとうございました。そうですね、このように調べればよかったんですね。私の調査不足でした。 このところホームページの更新に忙しく、調べる作業を怠っていました。為永春江についての情報は持っていません。これから調べることにします。 3月24日 〈発信〉 駕篭舁さんへ。杉本秀太郎『京都夢幻記』には、佐倉という文字が出てきませんでした。 3月22日 節の介さんからメールあり 佐倉藩士、窪田子蔵の蝦夷地調査時の日記についての情報です。「協和私役」窪田子蔵収録『日本庶民生活史料集成』第4巻 探検・紀行・地誌・北辺篇(223-270頁)(高倉新一郎編 1969年6月 三一書房) 編集委員の解題の一部を抜粋します。安政3年・・・外国掛老中、下総佐倉藩主堀田備中守正篤は藩士窪田子蔵等三人を派し、子蔵等は六月二十三日函館を発して西海岸を北上して宗谷に到り、樺太に渡ろうとしたが季節が後れ、断念してオホーツク海を東に出、北海道を一周して帰り、日記体の報告書『協和私役』を残した。 追伸 翌年の安政四年には、今村治郎橘らが派遣され、今村が「蝦夷日記」を残しているとの別情報があるのですが、収録先等は未確認です。 〈返信〉 ありがとうございました。今村治郎橘については、青柳嘉忠「佐倉藩の絵かき」『佐倉市史研究』第2号 昭和59年)にありますので、ご覧ください。 3月21日 なっちゃんから、雑誌『クロワッサン』(2006年11月25日号 マガジンハウス)をいただく。「わたし きのう きょう あした」というコーナーに佐倉市在住の画家高橋真琴さんが紹介されています。(126〜129頁) ★★★ Mサンからメールあり ご無沙汰しています。佐賀のMです。この一月の濫読中に数個の佐倉情報を拾いましたので、ご連絡します。 馬場恒吾著『現代人物評論』(中央公論社)田中義一の佐倉演習の記事がありました。調べたら佐倉には司令部と師団があったようです。千葉は案外近代日本に於いて軍事拠点の土地でもあったのでしょうか。 長崎県立図書館編『郷土の先覚者たち 長崎県人物伝』(長崎県教育委員会)杉亨二の項に、先輩手塚律蔵を訪ねると同藩の佐倉藩士西村平太郎と言う佐分利流の槍の名手に会ったという記事がありました。この西村平太郎は後に杉と一緒に「明六雑誌」などで活躍した西村茂樹であると書いていました。 〈返信〉 情報、ありがとうございます。 佐倉には、明治時代、歩兵第一師団の第二連隊の営所が置かれていました。第一連隊が東京ですから、それに続く連隊であったわけです。連隊司令部もありました。その意味で、佐倉は重要視されていたといえます。 それから、私は長崎の本を読む機会などありませんから参考になります。 3月20日 K3さんから初メールあり 下記の本を見つけましたが、満開佐倉文庫に登録済みですか。 須田茂『下総佐倉の農民騒動』(2006年12月 崙書房) 〈返信〉 購入していましたが、掲載漏れをしていたようです。ありがとうございました。 3月17日 節の介さんから佐倉本情報あり 雑誌『多輪免喜 臼井の地名』第3号(2006年10月 佐倉地名研究会) 〈返信〉 ありがとうございます。 3月16日 Hさんから佐倉本情報の初メールあり 杉浦淳三『明治期の印旛沼疏水計画―研究資料抄録―』(2006年8月) 〈返信〉 知りませんでした。ありがとうございます。 3月13日 Uさんから佐倉本情報あり 芥川賞作家の安岡章太郎の作品に『利根川』(朝日新聞社、昭和41年4月初版)があります。 これは「週刊朝日」昭和40年8月から翌年1月にわたり、「週刊風土記・利根川」として連載されたものをまとめた本です。利根川を上から下まで歩いたルポで、最上流から銚子河口まで26章にわかれて紹介されています。 その20章目に「印旛沼」が紹介されています。伊藤悌三画伯による挿図も収録されており、この章では「掘削中の印旛流水路、大和田附近」と題されています。なにぶん古い本なので入手は難しいと思うので、紹介するのをためらっていたのですが、情報としてお伝えします。 僕がこの本の存在を知ったのは、真田幸村研究の一環でした。真田氏関係の本は何でも収集対象にしているため、真田氏の信州上田に関する本も当然集めています。 さらに真田氏は上州沼田も治めていたため、真田藩政による沼田の本も集めていたので、沼田は利根川流域の地なので、大学時代にこの本のタイトルを古本屋で見つけた時、もしやと思いチェックしてみたら5章と6章で「沼田」があり、即購入した訳です。 ☆☆☆ 節の介さんから佐倉本情報あり 千葉県立中央図書館編『千葉県地名変遷総覧』(1970年2月 河出書房)古代東海道の駅の一つで、印旛地域にあったという鳥取駅の記述箇所 「延暦二十四年紀 印旛郡、鳥取ノ駅ヲ廃スト」(124頁)「延暦二十四年紀 鳥取ノ駅ヲ廃ス」(廃止理由の説明あり)(129頁) 明治二二年千葉県町村分合資料 神門(鳥取古駅名ナルガ、今詳ナラズ。・・・、大略、其位置ハ長隈郷ノ辺ト想像セラル。・・・)(134頁) 千葉市史編纂委員会『天保期の印旛沼掘割普請』(1998年3月 千葉市)印旛沼開鑿工事についての研究書です。 鏑木行廣『天保改革と印旛沼普請』(2001年11月 同成社)印旛沼開鑿工事についての研究書です。 3月11日 節の介さんから佐倉本情報のメールあり 社団法人日本歩け歩け協会編『1日1万歩 日本の旧街道ウォーキングガイド(東日本編)』(1997年4月 実業之日本社) 成田道 メーンコース・・・佐倉城跡、甚大寺、佐倉順天堂跡、佐倉厚生園、歴博。佐倉城跡の解説文及びコース延長・高低差の説明図あり。(104-107頁) 本書では、高低差をグラフの縦軸にしているような見出しがグラフの横に付いていますが、縦軸は国土地理院の地形図の標高であり「0」は海抜です。このコース図から次の情報が読めます。 京成佐倉駅(約3m)<1300m・2000歩> 順天堂(約32m)<3000m・4615歩> 経由地点 鏑木町(約22m) 新町(約33m) 佐倉東高校前(約33m)<700m・1077歩> 歴博(約33m)<1000m・1538歩> 京成佐倉駅(約3m) 総延長6000m 消費カロリー230kcal (注)地名の一部は紹介時に補足 標高は図の高さ目盛りからの読み取り値。歩幅は、「1歩の歩幅を65cmとして計算してあります」 〈返信〉 城下町散歩の高低差や歩数などか書いてあるのには驚きました。さすが日本歩け歩け協会だと思いました。 佐倉の海抜0mから、京成佐倉駅が3m高く、さらに歴博が30m高い場所にあるんですね。それから佐倉の標高が、だいたい32〜33mなんですね。 3月9日 峠の釜飯さんから佐倉本情報のメールあり 松坂實『ナマズ博士放浪記』(1994年 小学館)「現在、千葉県佐倉市の印旛沼のほとりにナマズたち専用のビニールハウス温室があり、毎日いっしょに暮らす生活である」(204頁)という記述があります。 『アマゾニア写真紀行』(1992年)の奥付に佐倉市の住所が載っていました。この方、アマゾンに関する本をいくつか書いています。 〈返信〉 『ナマズ博士放浪記』は所蔵していましたが、掲載漏れをしていました。松坂氏は椎名誠の『モンパの木の下で』所収 「再びむらむら」に、 「現在は水を求めて印旛沼の近くに移ったが四百坪の土地に二千匹以上のナマズを飼っている」(102頁)とあります。この部分は、『満開佐倉文庫』に収録しています。 ☆☆☆ Sさんからメールあり いろいろ検索していましたら、佐倉本データベースに行き当たりました。比留間弘さんが書いている『地獄の戦場 泣き虫士官物語』が掲載されていないような気がしますが。ご存じでしょうか。 〈返信〉 『地獄の戦場 泣き虫士官物語』は把握していましたが、本文に「佐倉」という文字が出てこなかったのでデータベースには掲載しなかったと思います。 本の前書きか奥付に「佐倉市在住」と記載されていれば、佐倉市民本のジャンルに入ると思いますが、これもデータベース化をしていません。 つまり、佐倉市在住の人が書いた本のジャンルは多方面にあり、それらの本を「佐倉」という文字が出てくる本といっしょにしてしまうと、「佐倉」という文字が出てくる本を把握できなくなってしまうからです。 また、著者が佐倉市の人であっても、本のどこにも「佐倉市在住」となければ、ホームページ掲載の対象とはしません。それは、著者が居住地を伏せているのに、あえて「この人は佐倉市在住」と紹介する必要はないと思うからです。 このような判断で本を把握していますので、よろしくお願いをします。 比留間氏はこのほかにも出版をしており、かなり前に数冊買い求めました。図書館の検索を使いましたら、7冊出版されているようです。これからも情報をお待ちしています。ありがとうございました。 3月8日 駕篭舁さんからメールあり 「一番はじめは」という合唱曲があります。いち番はじめはいちのみや 二は日光の東照宮 さーんはさくらの宗吾さま・・・・だれでも一度は聞いた曲なのでメロディーはお分かりかと思います。 1月の佐倉混声と千葉ユンゲルのジョイントコンサートでこの歌を聴き、佐倉が入っていたのでびっくりしました。すでに収録済かも知れませんが、娘から楽譜のコピーを貰いましたので一応お送りします。 この歌は替え歌が幾つもあって、三は讃岐の金毘羅さんというのもあるそうです。 3月7日 Y3から佐倉本情報 PR冊子『JR東日本 小さな旅』(2007年3月>2007年5月 東日本旅客鉄道株式会社)「お花の見どころ 大特集 東京・千葉エリア」桜の名所が6ヵ所紹介されている内の一つに「佐倉城跡公園」が入っています。(12、13頁) また、同ページの花のイベント情報に第19回佐倉チューリップまつり 4/11 − 4/15が案内されています。 ☆☆☆ Hさんから情報 情報紙『ぶらりネット CHIBA』 VOl 101(2007March-April)桜の名所として、佐倉城址公園、佐倉草ぶえの丘、川村記念美術館が紹介されています。 3月6日 えりっぷさんから佐倉本情報あり 幕末維新関係を調べています。佐倉関係の記述を見つけましたのでご報告です。ご存知でしたら、すみません。 高橋康雄『メディアの曙ー明治開国期の新聞・出版物語』(1994年 日本経済新聞社)ヘボン博士の代わりに夫人が英語塾を引き受けるくだりで「『せめて英学の初歩をわたしが教えましょうか』秋の訪れとともに、夫人は英語塾を開くことを決意した。 『それは助かるね。ミスター佐藤から子息の教育を頼まれたところです』佐藤の息子というのは佐倉の元典医佐藤泰然の子で、後に大阪医学長をつとめる泰然の娘婿の林洞海の養子に入った薫三郎(のちの薫)である。 時に十四歳。泰然は佐倉で順天堂塾を開き、西の緒方洪庵の適塾と並び称せられる隆盛を誇ったが、文久2年(1862)年、佐倉の病院と塾を長男の尚中にまかせ、横浜で外国方の通弁官をしている山内六三郎(堤雲)邸に同居することになった。 医のほうは隠居仕事につづけていたが、なかなか繁盛した。この泰然は昔、高野長英をかくまったこともある開明派の反骨の人物で、医師としての頂点をきわめながらもヘボンのところで治療を見聞するなど、なかなか研究熱心であった。」(32頁)以下略。 田口英爾『最後の箱館奉行の日記』(1995年 新潮選書)「杉浦の懐中日記にはその日に起こった出来事は記されていない。杉浦は明治10年代の後半から、同じ漢詩仲間の依田学海と頻繁に行き来していたが、その出来事を学海に語り、学海は自分の日記に、杉浦から聞いた話として一部始終を克明に記録している。 『学海日録』の明治19年11月27日には、「梅譚この頃いとおもわぬ事ありて罰金出せし事ありと語る。去る日の事なりけり」以下略。189ページ晩翠吟社時代、依田学海との交友は特に親密で、20年以上にわたった。三日と間をおかず往き来し,詩を談じ食事を共にしていた。 『梅翁』として登場する杉浦の言動は先のエピソードのように『学海日録』に詳しいが」(187頁)以下略 興味のある方はお読みください。 〈返信〉 ヘボン夫人は董を子どものように可愛がったそうです。林董の回顧録『後は昔の記』に「董は後年ヘボン塾を回想して、『常々感謝しておるのは、博士夫人の本当に母親の様なお世話になった』ことである、と書いている。」(18頁) 文久2年、佐倉を離れた泰然は横浜の山内六三郎邸に同居し、医者を開業する。宣教師で医師でもあったアメリカ人ヘボンは泰然の家から河を越えて掘割(居留地)39番地にあり、泰然はヘボンの家を訪れて治療を手伝っていた。そのような関係で、泰然は董の教育をお願いできたものと考えられる。 現在、元町・谷戸橋近くにヘボン博士邸跡があるが、当時、ここは外国人居留地であり、おいそれと日本人は入ることができなかった。その境を区切るものが谷戸橋であり、各藩が交代で警護にあたっていた。 佐倉藩は文久2年5月から一年間、外国人居留地警護の命を受け、その入口にあたる前田橋と谷戸橋の番所に藩士27人、従者26人を派遣した。泰然がヘボンの家に通う時期、入口の番所を佐倉藩士が警護していたわけで、泰然にとっては誠に都合が良かったことだろう。 一方、佐倉の順天堂では困ったことが起こっていた。佐倉藩の蘭学を推進しているのは順天堂の泰然。そう水戸藩には映っていた。そのため、順天堂は攘夷派の考えを持つ水戸浪士の標的とされていた。 泰然が横浜に移ると、浪士が佐倉の順天堂に押しかけ、 「横浜に隠居しているはずの佐藤泰然が、外国人と親しく交際しているそうだが、けしからん。すぐに止めさせて佐倉に呼び戻せ。」 と騒ぎ、塾頭相良知安を困らせていた。 「最後の箱館奉行の日記」については、原著をざっと見たことがある。その中で、元佐倉藩士木村隆吉が箱館奉行の下で貿易の手伝いをしていた記事を見つけた。 木村隆吉とは、麻賀多神社にある「両士記念の碑」に刻まれた一人。彼は脱藩して彰義隊に加わり戦死したとあるが、行動経過がわからない。 依田学海と杉浦梅譚は親友だったということだが、お互いに幕府方の考えを持っていた、という共通の心情があったからだろうと思う。 資料、ありがとうございました。 3月5日 Mさんから佐倉本情報あり 関宏夫『かくれみの街道をゆく』(崑書房出版・2002年刊)は、正岡子規が明治二十四年三月に房総を徒歩旅行した記録『隠蓑日記』を題材にした読み物です。三月二十六日に佐倉を通過していました。子規の記事は「至佐倉」のみです。宿の女中に起されて、鶯を啼き声を聞き、佐倉に至り、村人が自分を見て西郷隆盛ではないかと噂したとあります。その後宗吾社に詣でています。 相良知安を扱っている小説を私の書架から探しましたら、次の二冊が出てきました。当然佐倉順天堂が登場します。 篠田達明著『白い激流 明治の医官・相良知安の生涯』(新人物往来社・1997年刊)「第三章 佐倉順天堂」松浦沢治著『かわず町泰平記』(青磁社・1987年刊)この中に『葉隠医官 相良知安抄』が収録されています。 一応二作とも小説です。後者は中篇作品で「下総佐倉の順天堂へ入学した知庵は、岩佐純、長谷川泰、佐々木東洋、司馬凌海といった、いずれも後に名を成す英才たちと競いながら、蘭学、蘭方の研鑽を積んだ。」とこれだけの記事でした。 『公私月報』(巌南堂書店)は昭和五十六年の刊行の復刻版です。東大の明治新聞雑誌文庫時代の公私混同月報ですので、明治時期の新聞記事拾いと新聞人紹介でした。私も最近この本の事を知り、慌てて取り寄せて読みました。佐倉が県庁所在地にならなかったのは士族が反対したからだなどと言った記事もありました。 〈返信〉 ありがとうございました。 『かくれみの街道をゆく』把握をしていましたが、郷土資料本という考えで漏れてしまっていました。郷土資料本を掲載すると膨大になってしまうので、佐倉本から抜いてきました。 しかし、昨年から再び、近年の郷土資料本は掲載することにしました。それは、みなさんからの問い合わせが多くなってきたからです。でも、基本的な考え方として、郷土資料本は研究者に任せたいと思っています。 『かくれみの街道をゆく』は正岡子規の読み物ですので、佐倉本として掲載するべきでだったかも知れません。もう一度、読んでみます。なお、佐倉が出てくる本の文学論や作家論、研究書であれば郷土資料本として取り扱いをします。といっても厳密に分類はできないんですね。いつも悩んでいます。 篠田達明著『白い激流 明治の医官・相良知安の生涯』は把握していましたが、松浦沢治『かわず町泰平記』は知りませんでした。探してみます。 『公私月報』は、反骨精神と洒落のわかるジャーナリスト宮武外骨らしい本の題名ですね。「佐倉が県庁所在地にならなかったのは士族が反対したからだ」ということだそうですが、依田学海の『学海日録』や、西村茂樹の全集を読んでも、そのような話は出てきません。 それは何故なんだろうと考えています。これからも情報をお寄せください。 3月4日 最相葉月『青いバラ』を読んでから津田仙の農園が気になり、津田仙関係の本を読む。津田仙の農園にもバラは植えられていた。 クララ・ホイットニー著・一又民子他訳『勝海舟の嫁 クララの明治日記』(1996年5月 中公文庫)に津田仙のことが記されている。クララとは、勝海舟の三男梅次郎の最初の妻であり、一又民子氏は勝海舟の遠縁にあたる。一又氏らの招きで後年来日したクララの娘が、ノートに記されたクララの日記を持参し、それを訳したのが本書である。 クララの日記は、日本に滞在した明治8年(1875)から同20年(1887)までのできごとを記しており、クララ家と付き合う人々が描かれている。仙は麻布にイチゴの農園をつくっていたが、その農園のようすが記されている。 「(1876)五月二十四日 水 今日、津田氏が、お庭に苺を摘みに来るように招待してくださった。 (中略)間もなく目的地(麻布本村町217 学農社)に着くと、津田氏がお庭で私たちを出迎え、とてもお喜びになった様子で、英国風の家に招き入れてくださった。それはとても小さな家で、お蔵の上に建てたものだった。長い馬車道が門と花園まで続き、向こうに畑、池、丘、竹葉林などがあった。 (中略)親切なご主人が用意してくださったお菓子とお茶をいただいてから、苺摘みに誘われた。 花園を通り抜ける時、津田氏は、今までみたことのないほど美しいばらを何本か折ってくださった。かわいいピンクのものあり、白や濃い紅や深紅色のもあった。本当に、こんなに豊かで華やかな色は見たことがない。日本の花はすべて、このように明るい色をしているが、香りが乏しいのだそうだ。しかし、ここにあるのは大部分アメリカやヨーロッパから輸入されたもので、日本に入って二、三年たつと、香りを失うけれど、色が新しく美しくなるという。」(187頁) 津田仙も明治9年には、バラを植えていたのである。しかも、話からすると、仙は明治9年の2、3年前からバラの栽培をしていたように読みとれる。仙も、日本でバラを早くから栽培した一人といえそうだ。 3月2日 昨日の続き 林董は幕末、幕府の海外留学生として英国に留学。戊辰戦争の勃発により幕府からの送金が途絶え、ヨーロッパ各地に留学していた学生たちはフランスに集合して帰国。 帰国後、江戸の林家に逗留。董は榎本武揚と義兄弟の関係にあり、林家を訪ねてきた武揚と意気投合。武揚が率いる幕府軍に加わり五稜郭の戦いに参加。投降。そして、弘前藩に預けられ禁錮の身となる。 明治3年4月、禁錮を解かれ、横浜にいた父佐藤泰然の家に帰る。このとき山東一郎が訪ねた来た。董は職がなかったから、すんなりと英語教師を引き受ける。 人の出会いとは誠に面白いもので、幕末には董の兄である良順の家に寄食していた一郎が董と知り合い、それが縁で今度は董の職を世話することとなる。さらに一郎は董に伊藤博文を紹介し、これも後に縁につながる。 また一郎は大隈邸に居住し、明治義塾という英語学校を開いていたが、同所に良順も病院を開いていた。二人の親密な関係がわかる話である。 明治4年4、5 月ごろ、紀州人陸奥宗光が欧州巡視より帰朝し、紀州に帰るとて英学のできる人を求めていると良順が董に話す。そして、陸奥氏と面識があるので董を勧め、了解を得たという。そのため速やかに東京に出て陸奥氏に会えという。 ここには一郎が出てこないが、一郎は和歌山の人。宗光と同郷である。陸奥宗光の兄は和歌山藩執政の伊達宗興(むねおき)で、明治2年1月17日、依田学海が伊達邸を訪れたとき、一郎も伊達邸にいた。(『学海日録』 昨日の記載参照) 普通に考えれば、宗光と一郎のつながりも直接に、あるいは宗興を通して間接的にあったといえる。そして、そのような関係があればこそ、宗光の求める人物として董を推薦する話につながっていったのだろうと考える。 以来、董と宗光との関係が生じ、明治4年7月、廃藩置県で宗光が神奈川県知事になると董を神奈川県に出仕させた。 董は県庁に入ってまもなく、岩倉具視を正使とする使節を欧米に派遣するとの情報を得、伊藤博文大蔵少輔が横浜に来たときに、使節随行を請う。董の無謀とも思える直接交渉も、面識があったのでと記す。董は岩倉具視使節団に加わり見聞を広める。 明治24年、榎本武揚が外務大臣になると董は外務次官となる。翌年、陸奥宗光が外務大臣になり、留任。まもなく董は外交官の道を歩む。 董は明治35年1月、駐英公使として日英同盟を締結した人物として名を残している。 董を語るにあたっては、これまで『後は昔の記』に頼ってきたが、どうも鏡の表面だけを見ているようであった。そこに山東一郎の話を加えると裏面も見え、林董の人間らしい姿が見えてきたように思える。 3月1日 最相葉月『青いバラ』を読み進める。 初めてバラを愛した男・山東一郎の話の中に、松本良順・林董・依田学海の日記『学海日録』が出てくる。 松本良順・林董は、佐倉で順天堂を開いた佐藤泰然の実子で兄弟。良順は松本家の養子となり、董は林家の養子となった。依田学海は佐倉藩士で、江戸留守居役になる。学海は幕末から明治にかけての膨大な日記を残しており、近年、『学海日録』として世に出された。 山東一郎は、明治3年にアメリカからバラを移入し、後に西洋からバラを取り寄せた元祖といわれるほどとなる。一郎の経歴やバラとの出会いなどは『青いバラ』に書かれているのでご覧いただきたい。ここで記したいことは、山東一郎と佐倉にゆかりある人とのかかわりである。 幕末、山東一郎の仲間が病気となり、幕府医学所頭取となっていた松本良順を訪ねている。ここで林董にも会っている、とある。 松本良順・林董との関係については、林董の回顧録『後は昔の記』(由井正臣校注)に出ている。 「紀州浪人に山東一郎(後に直砥)という人あり。予が十五、六の頃、和泉橋通なる我兄松本君の家に寓居し、予もよく知れる人なり。 (中略)明治維新の際、此人は函館の判事となり、後に官を辞して牛込早稲田、今の大隈邸なる高松藩下屋敷に居住し、明治義塾とて英語学校を開きおられたり。予が函館より帰りたりと聞き、早速横浜に来りて、予に勧め其塾にいたりて英語を教授すべしという。 予も外に為すべき業もなかりしかば、其勧めに従いて早稲田に往く。予を大隈氏(重信)・伊藤氏(博文)に紹介せしも此人にて、当時のことにてありし。」(36頁)とある。 また、明治2年1月17日、依田学海は伊達邸で福沢諭吉と山東一郎に会ったことが学海の日記『学海日録』に出ている(『学海日録』第二巻 289頁)。 しかし、日記にはそれ以上のことが記されていないので、学海と一郎の関係は、学海が伊達邸を訪れたおりに会ったという程度であったと思われる。 2月28日 佐倉本情報 千葉県商工労働部観光課・千葉県観光協会編『ちば眺望100景』(2007年1月 千葉県)千葉県内で見晴らしの良い場所100選というもので、佐倉では「印旛沼サンセットヒルズ」(オートキャンプ場)が選ばれています。(22頁) 2月27日 sendagiさんから佐倉本情報のメールあり こんばんは。sendagiです。ご無沙汰しています。先日、無料配布の、とある冊子に「佐倉」を見つけましたので、一応、ご報告いたします。既出の情報でしたら軽く流してください。 隔月刊誌『ゆるり』(2007年1月-2月号 千葉市勤労者福祉サービスセンター)に、「房総紀行6 佐倉市 正岡子規『総武鉄道』」ということで、佐倉が取り上げられています。(9頁) たった1ページですが、明治27年暮れに正岡子規が佐倉に訪れたときの話と、現在の総武本線・物井-佐倉間を行く211系電車の写真、それに蔵六餅の紹介が掲載されています。 記事の写真は、電車が鹿島川の鉄橋を渡り終え、寺崎トンネルに向かっているところです。ここは、ご承知のとおり、寺崎トンネル開通に伴ってルート変更された区間で、正岡子規が汽車で佐倉に来たときには通っていない部分ですね。 まぁ、撮影を担当したカメラマンや編集者がそこまで知っていたかどうか知る由もないですが、線路の両側に田んぼが広がるこの場所は、正岡子規が車窓から眺めたであろう、当時の風景をよくとどめている・・・編集担当はそう思ってこのカットを採用したのかも知れません。 〈返信〉 ありがとうございました。この田園地点は、よくカメラマンがカメラを構えているので車窓からでもわかりますね。しかし、今回のように太田の高台から狙ったアングルは初めてみました。このアングルも良いですね。 以前、ホームタウン佐倉さんに、「みんながどうしてこの地点からカメラを構えるのでしょうか?」と聞いたことがあります。そうしたら、「考えてみてください。東京から成田の間で、のどかな風景を撮れるのはここしかないじゃないですか」といわれました。 鉄道が高架になって、それまではどこにでも見られたのどかな田園風景の中を走る電車が撮れなくなってしまったんですね。ですから線路が少し変更となっても、記者は当時の面影を残す風景にこだわったということでしょうね。記者の努力を買いましょう。 地元の人にとっては見慣れた風景も、大きな視野で見れば、そこしかない貴重な風景となっていることがあります。風光明媚な風景ではありませんが、心に残る風景、私はそれを「イメージの風景」と呼んでいますが、これからは、このような風景を再発見し、大切にしていきたいと思います。 2月26日 昨日の続き 3 黒住武市『日本通信販売発達史 明治・大正期の英知に学ぶ』(1993年3月 同友館)によると、 「津田は、学農社をただ学習塾として農学を教えるのみをもって足れりとせず、広く農業知識を普及する必要性を感じ、明治9年1月、『農業雑誌』を発刊した。 (略)そして、同年4月第8号に、郵便による申込みを受けて商品を発送する通信販売の方法が、『禀告』として明示されているのである。ここに、わが国最初の通信販売が農業雑誌を媒体としてスタートしたのである。」(25頁) 当時、まだ通信販売という言葉はなかったが、郵送による販売方法は今日言うところの通信販売にあたる。そのため、津田仙は通信販売を日本で初めて行った人とされる。 仙の着想を考えるに、近代農業の普及のためには新しい種子が必要であり、その種子の通信販売にあたっては、自身が野菜の栽培をするにあたって外国から種子を取り寄せていた経験からしても不安はなかったと思われる。 さらに、最相葉月『青いバラ』にも興味あることが掲載されていた。 「官園で栽培されていたさまざまな植物は、ポーマー(注)が英米の種苗会社と手紙をやりとりして購入したり、日本の種子と交換して取り寄せたものだった。大蔵省『開拓使事業報告書第二編』によれば、明治六年から開拓使が廃止される明治十五年までの十年間に、花弁・果樹四千九百二十九株、三六二三二0円を購入していたとある。」(241頁) ポーマーの来日は明治5年。しかし、仙は明治4年11月に開拓使をやめているので、ポーマーの購入方法に影響を受けたということではない。このころ、種子の購入については郵送によるのが一般的であったということである。ただ、通信販売を行う会社は外国にあり、日本人はお客でしかなかった。 これに対し、仙は自ら売主になって近代農業普及のために種子の販売を始めたのである。 (注)官園に雇われた外国人技師 2月25日 Y3さんから佐倉本情報のメールあり まちづくりマガジン『すたっと stad 9号』2007年 2・3月号(2007年2月発行 轄p逡艫lットワーク) 「すたっと歩こう! ちばグリーンバス〜佐倉観光循環線〜旧城下町の旅」がに掲載されています。(12、13頁) 2月24日 昨日の続き 2 津田仙は、慶応3年(1866)に新潟奉行で英語の教授として従事し、また通弁御用翻訳をしていた。津田の語学力は、鎖国の時代にあって西洋の学問が奨励されていた佐倉藩の積極進取の精神を抜きには語れない。明治に活躍する佐倉にゆかりの人は、多くが藩校に学んでいた。その一人が仙であった。 明治維新となり、幕府が瓦解すると仙は東京にできた築地ホテルに勤めた。ホテルは港に近く、外国人旅客を多かった。そのため、仙の語学を必要としていた。ここで、仙は西洋人の食事には生野菜をとることを知る。もともと農業に興味を持っていた仙は、野菜の栽培を試み始めた。 翌年、北海道開拓使が設立。同4年、仙は開拓使の嘱託となり、青山にある北海道開拓使農事試験場を担当する。また住居は向島から麻布本村町に移し、開拓使の嘱託を勤めながら、自宅で野菜栽培を行った。種子は外国から取り寄せた。 同年、開拓次官であった黒田清隆はアメリカ人の女性の社会的地位と教養が高いことに驚き、日本でも女性の地位向上のためにと海外女子留学生を募った。その中の一人が仙の娘梅子である。 この年の11月、梅子ら海外女子留学生は岩倉全権大使一行とアメリカに出発。翌日、仙は開拓使の嘱託を辞任し、民部省農寮に勤める。そして、ウィーンで開催される万国博覧会の派遣団一行に加えられた。肩書きは三等事務官お雇いとして、農業園芸の調査部門を担当することとなった。 仙が開拓使に勤めた期間は1年にも満たないわずかであった。そのわずかな時間に海外女子留学生の募集があり、梅子が選ばれたことになる。幸運というべきか。 以下、次回。 * 最相葉月『青いバラ』を引用して、津田仙の通信販売を話すつもりであったが、前段が長くなってしまった。 2月23日 昨日の続き まさかバラの本を読んでいて津田仙、松本良順、林董、依田学海の日記『学海日録』が出てくるとは思わなかった。最相葉月『青いバラ』を参考・引用しながら、佐倉にゆかりの人物が記された背景を記す。 津田仙関係の話 佐倉藩士の家に生まれた仙は、幕臣津田家の養子となる。娘梅子は、海外女子留学生として知られる。 時代は明治維新の翌年。版籍奉還後の官制改革によって北海道開拓使が設けられた。北海道の自然資源の開発と、外交上の理由からであった。開拓使は外国人技師の指導を受けて、明治四年九月、東京府内3カ所に開拓使官園を開園した。 「農産物の栽培試験場といったらいいだろうか。北海道で栽培・飼育するためにアメリカなど海外から農作物や動物を輸入する必要があるものの、いきなり北海道にもっていっても、気候風土の違いを考えればうまくいくか定かでない。 このため、東京でこれらを一定期間繁殖・飼育し、風土に合うと判断した段階で北海道に送ろうというものである。 明治二年の版籍奉還によって天皇に奉還された旧藩主の土地のうち、渋谷の旧松平英頼邸四万坪、旧稲葉正邦邸五万坪、旧堀田正倫邸四万七千五百六坪余をそれぞれ使用することにした。青山南町七丁目(現・青山学院大学付近)、青山北町七丁目(現・青山病院付近)、そして麻布新笄町(現・日赤医療センター付近)の三カ所だった。 官園では農作物の栽培や家畜の飼育のほか、欧米から輸入した最新の農業機械、たとえば自動収穫機、脱穀機、草刈り機などの試験利用も行なわれた。青山の二つの官園は果樹や野菜が中心、麻布は畜産が中心であった。」(239頁) 「当時、青山官園の建設と事業責任者は、村橋久成だった。(略)また、慶応三年に、勘定吟味役の小野友五郎の随員として福沢諭吉らと咸臨丸で渡米し、アメリカの農法に感銘を受けた津田仙も、帰国後に北海道開拓使の嘱託となってここで農事研究を行なっていた。 津田は、明治八年には、中等程度の農業教育を行う日本初の学校、私立学農社を設立する人物である。つまり、日本の近代農業はまさにこの青山の開拓使官園から始まったといえるだろう。」(240頁) * 旧佐倉藩主堀田正倫邸は、渋谷の広尾、現在の日本赤十字医療センターと聖心女子大学のある地。医療センターの脇には堀田坂がある。津田仙は果樹と野菜を手がけていた。明治7年、女子小学校を創設。後、3つの学校が統合し、青山学院となる。青山学院の創立記念日は津田仙が創設した女子小学校の開校日をもってする。仙と青山学院大学のつながりが見えてくる。 「バラは、開拓使官園が開園されて間もなく栽培されていたようだ。」(243頁)とある。仙と直接、バラとのつながりは見当たらないが、興味のある話でした。 2月22日 佐倉本情報 最相葉月『青いバラ』(2001年5月 1600円 小学館)「日本のバラの父」と呼ばれる鈴木省三という人が八千代市に住んでいた。鈴木氏が生涯に作出したバラは108品種。しかし、彼は京成バラ園芸という企業の社員であるため、鈴木氏の新品種は京成バラ園芸の商品であり、カタログを見ても鈴木氏の名前が記されることはなかった。 「佐倉にローズガーデン・アルバというバラ園があって、前原君という男がいます。たくさん珍しいバラがありますので、彼に説明をしてもらってください」(107頁) 「しばらくすると、車は東邦大学医学部附属佐倉病院の左手の細い道を入って数十メートル走ったところで止まった。左手にバラのアーチ、足元には濃い色の柔らかそうな地面が広がり、一瞬、映画のセットのように思えた。周りで背の高い建物といえば病院しかない新興住宅地に、忽然と現れたユートピアのようだった。 車を降りた途端、全身が柔らかな花の香に包まれた。アーチの脇には、『バラを愛するみなさまへ』と書かれた木製の看板があった。 ローズガーデン・アルバは自然環境を保護し、バラの貴重な原種を保存して、いずれはバラの博物館づくりを目指しています。入園料は三つの目的及び維持管理費にあてさせていただきますので、ご協力をお願い致します。 アーチをくぐると、左手に鈴木省三コレクションのコーナーがあった。」(109頁) 「赤バラのルーツ、白バラのルーツ、黄バラのルーツ。見慣れた現代バラの美しい色、香り、かたちや樹型は、こうした野生種や雑種から伝えられたものだった。時代をさかのぼっていくと、いかに人間がこの花に手を加え、自分たちの美意識のもとに新しい品種をつくり出していったのか、ヨーロッパの植民地戦争を背景としたプラントハンティングが何をもたらしたのか、手にとるようにわかるのだった。 バラの歴史とはまさに、人間の歴史だった」(112頁) 筆者は、鈴木氏に世界中の人が試みているが未だに叶わない「青いバラ」をつくりたいと思ったことはありませんかと尋ねた。 すると、「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」(6頁)といわれた。 現在、ローズガーデン・アルバにあったバラは「佐倉草ぶえの丘」という施設に移植されて、毎年、すばらしい花をつけている。 本書は鈴木省三のバラにかけた生涯を綴った本であるが、バラの世界史や、バラの知識に関することが詳細に書かれている。バラファンに一読を薦めたい。 なお、「草ぶえの丘」のバラ園について 植栽品種 800種類 植栽本数 1,800本 【世界の原種園、バラの歴史園、オールドローズガーデン、アジアのバラガーデン、鈴木省三コーナー】がある。 草ぶえの丘は、子どもの施設と思っていたので、まだバラを見に行っていない。今年は訪れてみようと思う。 本書は、「バラのことで佐倉がでています」と、Iさんから教えていただいたものですが、読み進めると、さらに驚く。佐倉ゆかりの人物津田仙、松本良順、林董、依田学海の日記『学海日録』が記されていた。何でバラの本に佐倉ゆかりの人が出てくるのか?詳細は次回。 2月21日 ギムリさんからメールあり 佐倉藩の家老については、『名家老とダメ家老』加来耕三著(2006年4月 講談社)にお一人紹介されています。(すみません、歴博の売店で立ち読みしたので、何ページに載っていたかはわかりません。志津図書館で所蔵してます。) 2月13日 ホームタウン佐倉さんからメールあり 館主さま、三連休はどのようにおすごしでしょうか? もしかすると勤務かも。 さて、通俗小説ですが、城昌幸著「若さま侍捕物手帳、双色渦巻」(1994年春陽堂書店発行・春陽堂文庫、佐倉図書館所蔵)に「印旛沼」の記述がありました。 下総国大和田在へ若さまが出掛ける「地獄図絵」のなかで、「このあたりは印旛沼と手賀沼との中間地帯でたいした起伏もない一面の平野だ」(p231) 「釣りをなさるならここから二里ばかり離れた印旛沼のほとりに下屋敷があるので、ご案内しましょうと言われ…行ってみると印旛沼の水に臨んだその下屋敷は、いささか風雅な作りのこじんまりした構えで」(p234)の描写があります。 印旛沼は単なる風景描写に過ぎず、もちろん事件とは何の関係ありませんがお知らせします。 2月11日 Uさんからメールあり 白井喬二の『富士に立つ影』は富士見書房の時代劇文庫から全8巻で出ていました。「俺はとうとう浪人だ」という読後感をいまだにあざやかに記憶しています。たしかに中里介山の『大菩薩峠』に匹敵する大河小説であります。主人公のキャラクターに注目してください。 他にも『新撰組』『新変呉越草子』などの優れた着想をもった作品を残しています。 今回は佐藤洋二郎の「福猫小判夏まつり」(文學界2001年3月号掲載)という短編恋愛小説を紹介します。印旛沼が出てきます。 「タクシーは北総線に沿って走り、高台から坂道をくだって行く。広い田圃はみんな印旛沼だったんですよ、大昔は、と運転手は言い、 ・・・(略)・・・眼下に昔は印旛沼だったという水田地帯が広がり、その中を小川が蛇行して流れ、森のむこうには千葉ニュータウン中央駅の町並みが見渡せた。 「あれが印旛沼で、その先が成田」 空気は澄み、いくつもの丘陵の先に開発された都市が見えた。佐藤洋二郎 「福猫小判夏まつり」より。素人判断ですが情景描写はすごく印象的だと思いますよ。この小説は現在NHK出版からの生活人新書、佐藤洋二郎著『実戦 小説の作法』で読めます。 〈返信〉 ありがとうございました。佐倉本で恋愛小説、初めてじゃあなかったかな?さっそく、本を探してみます。 ☆☆☆ 佐倉本情報 雑誌『別冊 旅の手帖 千葉再発見BooK』(2007年2月 880円 交通新聞社)旧堀田邸、歴博、手づくり工房さくら、川村記念美術館が出ています(76〜77頁) 黒岡美江子歌集『風鐸の音』(2003年3月 2500円 柊書房)印旛沼や佐倉のことが歌われています。黒岡氏は佐倉在住です。 2月10日 七つの子さんからメールあり こんにちは。先日話した「富士に立つ影」は、中里介山の「大菩薩峠」と並ぶ長編小説ですが、先日買い求めた筑摩書房本には、『裾野篇、江戸篇、主人公篇』のみ収められているに過ぎません。全篇の四分の一程度でしょうか。 親・子・孫三代にわたる築城家の物語で、明治時代まで続きますので、『主人公篇』よりあとに、再び佐倉が登場してくるかどうか、読み直してみなければわかりませんが・・・もう一度、この長編に挑戦するエネルギーが果たして残っていますでしょうか(笑) 〈返信〉 え、そんなに長いんですか!ここのところ、いろいろな本の情報があって、それだけでも読みきれなくなっています。うれしい悲鳴ですね。 2月6日 佐賀市のMさんから初メール 突然にメールを出す非礼をお許し下さい。 卑近の読書に佐倉関係の人物が次々に挙がって来ましたので、この際と思いまして、御高著『満開佐倉文庫』を閲読しました。幕末明治に興味がありますので、興味深い書でした。 依田学海の『学海日録』を今年になってから読み始めています。『依田学海作品集』は地元有志の方々による出版でした。多田健次著『近世教育史料の研究』(玉川大学出版部)を読んでいたら、西村茂樹も佐倉出身と出ていました。さすがにこの二人は『満開佐倉文庫』の名簿にありました。 ところで、和歌森太郎著『酒・旅・相撲』(ゆまにて出版・1977年刊)に母親を佐倉出身と書いていました。この本などは佐倉本に当て嵌まるのではないでしょうか。和歌森太郎の母親は佐倉出身で「佐倉、江戸まさり」が口癖だったと書いていました。 HPを確認しましたら「佐倉にゆかりのある人物を探す辞典」に和歌森まんの名前がありましたが、『酒・旅・相撲』は『満開佐倉文庫』の本棚一覧にも見当たりませんでしたし、HPにも出ていないようでした。 実は、上記の情報提供が目的のメールではありません。千葉県在住の人ということで、是非お尋ねしたいことがあります。我が郷土の先人に、幕末の遣米使節使節の一員であった綾部新五郎がいます。小城藩士です。戦前の郷土誌に、彼が「千葉にて客死」という記事がたった一行ありました。 明治になって上京し、新聞記者をしていたようです。明治二十年頃までは生存していた形跡はありますが、何時亡くなったか全く分かっていません。上記の千葉が千葉県なのか千葉市なのかも分かっていません。 照会文を書きながら、これは図書館にレファレンスすべき事項かなとも思いましたが、郷土関連図書を広く閲覧されている方と思いますので、このままメールさせて貰います。お門違いのメールでしたら申し訳ありません、読み捨ててください。 〈返信〉 満開佐倉文庫館主亀田雄岳と申します。当ホームページをみていただきましてありがとうございます。和歌森太郎著『酒・旅・相撲』は知りませんでした。佐倉本です。ありがとうございます。 綾部新五郎という人物は知りません。何か把握したらお知らせします。また当ホームページに紹介して、みなさんに呼びかけておきましょう。これからも、よろしくお願いします。 なお、参考までに。 依田学海は本宅で『学海日録』を書き、妾宅で漢文の日記を同時に書いていました。こちらの日記は『墨水別墅雑録』として発刊されています。近頃、学海余滴研究会編『学海余滴』(笠間書院)が発刊されました。この三冊が学海を研究する上での基礎資料と考えます。 また『学海日録』の編集に携わった白石良夫氏が『最後の江戸留守居役』(ちくま新書 )で学海のことを書いています。こちらも参考となりますのでご紹介します。 ご存知とは思いますが、学海が妾宅にいたころ、森鴎外は漢文の添削を受けに学海を訪ねています。学海は鴎外に漢文を教えていたのです。鴎外は、そのころのできごとを『ヰタ・セクスアリス』という小説にし、学海を文淵先生として描いています。 2月5日 Uさんからメールあり 白井喬二のことが話題になっていますが、彼は昭和初期に活躍した時代小説家です。 他には僕の大好きな『帰去来峠』があります。これは猿飛佐助が主人公で戦前朝日新聞(?)だったかに連載された小説です。僕はその新聞連載の切り抜きも全話持っていますが、調べなければどの新聞に連載されていたかはわかりません。 帰去来峠とは信州上田から群馬県に抜ける県境にある鳥居峠のことで、ここで最初に真田幸村と猿飛佐助の出会いがあった場所として有名です。今でも峠には「猿飛佐助修行の地」とか「帰去来峠」とかの看板があります。 僕はたまたま真田幸村を研究しているので白井さんの『帰去来峠』を知っていましたが、一般の方や時代小説が好きな人は普通白井喬二というと『富士に立つ影』の方が有名ですし、白井さんの代表作となっています。 〈返信〉 ありがとうございました。猿飛佐助は知っていますが(忍者というぐらい)、白井喬二とは結びつきませんでした(本を読んだことがなかったので)。勉強になりました。さっそく『富士に立つ影』を探してみます。 2月2日 七つの子さんから佐倉本情報あり こんにちは。銀狐さんご紹介の「埋火 謙映院幾千子と堀田正睦」、さっそく注文しました。楽しみです。 ところで、先日古書店で、白井喬二 「富士に立つ影」-(筑摩書房・昭和国民文学全集2)を見つけました。 「富士に立つ影」は、中学生のころ夢中になって読んだ覚えがあり、懐かしくなって買い求めました。パラパラと拾い読みしているうち、「主人公篇」の冒頭、いきなり佐倉が出てきました。 かなりの部分、佐倉、印旛沼が舞台となっていますが、中学生のころは気にも留めずに読んでいたのですね(笑) この小説が新聞に連載されたのは、大正末期だと思いますが、作者の白井喬二は、そのころ佐倉を訪れたことがあったのでしょうか? 〈返信〉 知りませんでした。さっそく探してみます。白井喬二という人物も知りませんでした。どこの出身で、他にどのような小説を書いていたのか興味を覚えますね。どなたかおわかりの方がおりましたら教えてください。 2月1日 銀狐さんから佐倉本情報あり 昨日、秋本喜久子『埋火(うずみび) 謙映院幾千子と堀田正睦』(2007年1月 1900円 新人物往来社)が刊行されました。堀田正愛に嫁いだ松江の松平不昧公の娘と正睦を描いた小説で、帯には「幕末、佐倉藩と堀田正睦を支えた女人の数奇な生涯」とあります。 一定の史実を基に彩を添えた小説で、歴史上の人物に温か味を与え身近に引き寄せてくれるている力作と思います。表紙の彩り同様、女性らしい切り口で初めて正睦に豊かな人間味を持って描いてくれた作品ではないでしょうか。 〈返信〉 堀田正睦の話はいろいろありますが、このような切り口の話はありませんでした。堀田正睦を理解するための一冊です。是非、ご一読ください。 1月22日 えりっぷさんからメールあり 明治期のことを調べてますが、依田学海という人のすごさを知りつつあります。2002年講談社刊 『日本の歴史』20 維新の構想と展開 鈴木淳著 第1章明治の藩 公儀人依田学海のとこです。 「公儀人とはどのような人物が務めたのであろうか。依田学海という人物がいる。天保4年(1833)江戸に生まれ、文筆を以って知られた。幕末には佐倉藩の留守居役として、諸藩との折衝にあたっている。 彼は幕末維新期を通じてほぼ連日の記載があるかなり詳細な日記を残しており学海日録研究会の努力により容易にそれに触れることができるようになっているので、それを使って話をすすめよう」佐倉藩のことが色々かかれてます。 歴史学的に学海日録は重要視されてたんですね。名前はよく耳にするのですが。内容は良く知りませんでした。 ちなみにこれに影響されて、学海日録第3巻を読んでいたのですが、明治5年2月17日のところに「田内秀二郎来りて旧藩士卒山逸平二が家禄のことを告らる。印旛県出仕たりし吉見明・小林虎・桜井勇・広田彬・小川大六などみなやめられ、」と、広田さんの名をみつけたのでお知らせしておきます。 〈返信〉 ありがとうございました。えりっぷさんの熱意に圧倒されます。「満開佐倉文庫だより」の「歴史人物情報」に広田彬の情報欄をつくりました。これから情報を重ねていきます。 1月18日 佐倉本情報 川村たかし監修 児童書『心うたれるほんとうにあった話 2年生』(2005年9月 ポプラ社)に、山本省三氏の執筆した「えがおでゴール」という短編があります。これは、高橋尚子選手がシドニーオリンピックで金メダルをとったときの話です。小出監督も描かれています。 トップページ |