「地蔵堂通夜物語」と「堀田騒動記」の比較研究  

 滝口昭二

【2008年12月10日】

 
 木内惣五郎の一件に関する写本は私の現認したものでは28冊あり、外に、未確認(書名が紹介されているもの)が3冊あります。
 これらを大きく分けると「地蔵堂通夜物語」と「堀田騒動記」の二つの流れがあり、このほかに「その他の騒動記」とも言うべきものがあります。
 「地蔵堂通夜物語」と「堀田騒動記」の相違点を端的に言えば、前者は六部の話があるが後者はないこと、惣五郎の事件の発生を前者は承応2年(1653)としているのに対し、 後者は正保元年(1644v)としている点でしょう。「その他の騒動記」は基本となる惣五郎の話が前二者と異なる点です。
ただし、宗吾本、雨宮本はこれらの写本内容の基本とも言うべきものです。内容は、「地蔵堂通夜物語」系の本が10冊、「堀田騒動記」系の本が10冊あります。
「その他の騒動記」系は8冊です。これらを旧所蔵者名などによって略称することにして分類すると次のようになります。

 「地蔵堂通夜物語」系・・円城寺系7冊、藤崎本系3冊、
 「堀田騒動記」系・・堀田騒動記系5冊、佐倉騒動記系5冊、
 「その他の騒動記」系・・・宗吾本、雨宮本、長吉本、藤代本、小野本、宮籠本、瀬山本、木下本

 これらは「地蔵堂通夜物語」系の明治本と、「堀田騒動記」系の戸張本を除き、すべて江戸時代に属する写本です。
   木版印刷による刊本はありません。またその出現時期は、宗吾本・宝暦4年(1754)が最初で、堀田騒動記系の田中本・宝暦13年(1763)(ただし疑問がある)、 円城寺系(円城寺本・安永2年(1773)、が次いでいます。
 つまり、これらの写本の作成は後期堀田氏に属する堀田正亮の佐倉入部(延享3年=1746)以降であり、宝暦年間の全国的な百姓一揆の多発期間と合致することから、 書写活動はこの辺りから行われたこと、全国的な風潮と無縁ではないことが分かります。

 このうち書写年月が判明しているのは次ぎの16冊です。
 円城寺系・・円城寺本・安永2年(1773)、小川本・文政5年(1822)、羽山本・文政10年(1827)
       藤崎本系(伊藤本・文政10年(1827)
 堀田騒動記系・・田中本・宝暦13年(1763)松野本・嘉永7年(1854)、斉藤本・文久3年(1863)
 佐倉騒動記系・・匝瑳本・文化10年(1813)、柴山本・文政12年(1829)、安埜本・天保9年(1838)、
 その他の騒動記系・・宗吾本・宝暦4年(1754)、雨宮本・文政7年(1824) 、長吉本・弘化3年(1864)、
  藤代本・弘化4年(1874)、小野本・安政4年(1857)、木下本・嘉永6年(1853)。

 これらのうち、木下本をのぞく26冊に共通しているのは、正信の登場から佐倉領内名主たちの努力、大和守・将軍への直訴、捕縛、惣五郎ほかへの刑の言い渡しまでの「直訴」、 刑場への引き立てから惣五郎一家の処刑、奥方の狂乱、惣五郎への祭祀までの「怨靈」、正信の佐倉帰還から改易までの「騒動」の三つの内容が含まれており、かつ、この順序で叙述されていることです。
 この事から、これらの写本が共通した原本から派生したのではないかと考えることができます。
 この原本が如何なる形であったかは不明ですが、可能性としては、上記の三つの話が本来別々に伝えられていて、それを単純に1冊にまとめたものが宗吾本に近い形であり、  その時期が宝暦年間ではないかと思われます。

 
 宗吾本と雨宮本との相違点は文末が堀田正信の佐倉帰還で「アキレハテケリ」で終わる宗吾本に対して、雨宮本は、堀田正信の改易され、「人の一念の恐ろしさ末代までの鑑なるべし」まで物語るところにあります。
 円城寺系はこの雨宮本に、六部や勝胤寺の庵主、惣五郎夫婦の亡霊と見られる夫婦者を登場させ、各々が語る形に仕上げていることです。狂言の展開にも似たこの構成は、 「地蔵堂通夜物語」を物語として完成した姿にしているといえます。

 藤崎本系は基本的には円城寺本系であり、円城寺系より古い写本ではないかと思われるくだりもありますが、挿入されている「弥五郎物語」と「成田山新勝寺縁起」の挿入場所が異なること、 後に述べる騒動記系の内容(正信復活の内容)に影響されていると見られる叙述があることが特色です。
 また円城寺本系の写本が活発に作られたと見られるのは文化文政期で、幕末期の写本は見られません。

 
 騒動記系の12冊に共通する事は、惣五郎の直訴を円城寺系が承応2年(1653)とするに対して、これより8年早い正保2年(1645)とすること。  将軍家光の逝去(慶安4年=1651)による大赦で宇都宮城主に復活することです。史実から言って全くありえない順序で書かれています。
 それは承応(「しょうおう」)を正保(「しょうほう」あるいは「しょうぼう」)と聞き間違えて、その後の話しのつじつまを合わせたと見るには、あまりにも大きなずれがあり、 このあたりの改変はやはりかなり意図的と見るほかはありません。
 その意図について、公津村・東勝寺などを登場させて公津村のみを意識させようとした円城寺系に反発して、騒動記系の作者が、もっと広い立場(佐倉領内の事件という立場)で この騒動を表現したいということから、あえて時期や村名を替えたのであるとした論調もありますが、果たしてそうでしょうか。
 円城寺系よりも騒動記系の方が読み手やこの話が広がっていく先を意識したものであるということではないでしょうか。しかし全く架空の地名や人物では読み手の興味を失うことから一部を改変し、 当代の領主(後期堀田氏)にも配慮してできたというものではないでしょうか。

 
 「東山桜荘子」も佐倉惣五郎を浅倉当吾としていますが、観客は初めから惣五郎の話と見破っています。最後に正信を宇都宮城主に復活させ、写本によっては老中までになったとし、 後期堀田氏の祖である堀田正俊(正信の弟)にも配慮して「実に目出度き事」としているのはその片鱗と思われるのです。  堀田騒動記系4冊と佐倉騒動記系5冊の相違点はほとんどありませんが、旧所蔵者の所在地は前者が成田周辺が多く、後者が県外に多いというのみです。
 これは堀田・佐倉という人名地名に対する認識度の違いであろうと思われます。その他の騒動記系三冊は、内容は変わりませんが表題の付け方が各々異なるので一応別枠でまとめたものです。 木下本はこれらと全く異なる惣五郎話です。  騒動記系の写本活動の中心は天保期から明治期にかけてです。一冊だけ宝暦年間とされる写本がありますが、本文中に宝暦年間と確信できる文字がないので確定できません。
 ですからこれを除くと、匝瑳本(文化10年)が一番古い写本ということになりますが、数多く現れるのは天保年間以降です。  円城寺系と騒動記系の相違点はこれまで述べた中にありますように、物語の構成の違い、惣五郎の直訴年の違い、騒動記系の正信の復活のあることが先ずあげられますが、 物語作成の意図が大きく異なると見ています。
 それは円城寺系が仏神三宝を強調し、佛家による広宣的意図が如実であるに対して、騒動記系は「怨靈」や「騒動」を強調した読み物的な特色があることです。
 また円城寺系では惣五郎に対して金鉄のごとき意志のために祖先の家を滅ぼしてしまったとか、今では全く忘れられてしまっているなどと云う記述があり、惣五郎の事績についてやや否定的であるのに対して、 騒動記系では万人のために命を落としたとか皆人は宗吾大明神におまいりしているという記述があります。又騒動記系の数冊には坂戸村善兵衛を発頭人とする惣五郎妻子の助命嘆願の話があり、 年貢課役が下げられたのは偏に惣五郎殿のおかげであると記述されています。このまま見過ごしては佐倉領内の一揆の「解死人」(みがわり)として惣五郎を差し出したことになってしまうといい、 惣五郎は「不及是悲」としても妻子は佐倉領各村に下げ渡してほしいとしているのです。
 この善兵衛外二人は助命訴願に失敗した次の日に惣五郎一家の処刑を見、その場から善光寺をまわって、高野山に行き出家しています。これは円城寺系にはない表現です。
 つまり、惣五郎を義民(そのような単語・概念はありませんが)としてみる内容が含まれているのです。ですから、義民宗吾という意識、幕末から明治初期の義民宗吾伝につながるものは、 円城寺系よりも騒動記系の方が強く出ているといえます。
 一般に市川小団次による「東山桜荘子」は、「地蔵堂通夜物語」から脚本の発想を得たといわれていますが、嘉永年間(上演は嘉永四年)には既に騒動記系の写本は出回っており、 特に前述の坂戸村善兵衛の妻子助命嘆願の話が最初に現れる長吉本(弘化3年(1864)は、東山桜荘子上演の五年前ですから市川小団次もこれは読んでいたであろう事は想像できます。

 
 大野政治が紹介しているように「地蔵堂通夜物語」は参考にしたとしても、惣五郎一家刑死の凄惨場面や怨靈出現のおどろおどろしさの強い場面は「堀田騒動記」などから発想を得たのではないでしょうか。
 市川小団次による迫真の演技もさることながら、その部分が強調されることで義民宗吾への意識の高ぶりがあり、劇中に観客が舞台にあがって役人に抗議をしたということもあって、 義民惣五郎の事績確認に大きな影響を与えたといえます。
 円城寺系の写本は嘉永年間以降はほとんどなく明治に入って明治本(明治17年)があるのみです。円城寺系の写本活動は弘化年間までで終了し、騒動記系の方に庶民の関心は移ったと見られます。
 研究者の間では騒動記系の評価は一様に低く、あまり義民研究の中には出てこないようです。それは取上げられている史実に誤りと混乱が多いからです。
 そもそも正信は老中にはなっていないのに父正盛の後に着任したとしていること。惣五郎の直訴を正保年間としたことで領主は堀田正盛であり、直訴の相手は将軍家光となるのに、 物語上では正信(佐倉城主になるのは慶安4年)になっていること、正信が改易後家光の死によって佐倉帰還の罪を赦され宇都宮城主となりさらに大老となり越前守となっている事などです。
 このあたり全く史実とは相容れません。正信は延宝八年に配流先で自殺しているのです。
 この史実ではないことに目をつぶり、一つの物語としてみた場合は地蔵堂通夜物語より騒動記のほうがはるかに興味深い話になります。騒動記系の多くの写本が堀田正信の復活を歓迎して 「実に目出度き事」とし、更に惣五郎に対しても人々が崇敬してお参りを欠かさないとか万民のために命を落とした人であると説いている点は、めでたし目出度しで終わっているにせよ一応の盛り上がりを 感ずることができるのです。
 この騒動記系に見られる史実の誤りと混乱が全く意図的であるとすれば、作者はどのような狙いを持ってこのようにしたのか一層の検討が必要になってきます。
 円城寺本系はそれに対して史実的にはほぼ確かな背景を持っている書き方をしています。もちろん、惣五郎の将軍直訴、大和守越訴の事実は全くありえないとするのが歴史家の指摘するところで、 これを根拠に惣五郎の存在自体も疑問視しフィクションであると断ずる義民研究かもいますが、全体としては破綻はなく、義民伝として整っているといえます。
 しかし、話の進めるところが仏教説話的であり、狂言仕立てで物語としては整っているにしても、途中に関係のない説話が入ることで意識が断絶し、かえって盛り上がりに欠けるところが難点です。
 そして円城寺系の最後は「虚と実を取り合わせ」云々と閉じていて、当局からの指弾を免れるような書き方をしており、かえって肩透かしをされた感じになる事は否めません。
 ですから果たして作者に義民伝として後世に伝えるものとしての意識があったかは判断に苦しむところです。

   



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