佐倉炭


小説・エッセイに描かれた佐倉炭・備長炭・池田炭がありましたら、お知らせください。

                        【2008年4月11日 新設】 


 【佐倉炭が出てくる小説・エッセイ】

 尾崎紅葉
 「二人女房」(明治二四年 『都の花』に連載)
 「桐の刳抜の手爐に櫻炭が埋って」

 樋口一葉
 「われから」(明治二九年 『文芸倶楽部』に発表)
  「奥方は火鉢を引寄せて、火の気のありやと試みるに、宵に小間使ひが埋け参らせたる、桜炭の半ば灰に成りて」

 岡鬼太郎
 「ひだり馬」(明治四十年 刊行)
   「佐倉炭が一俵大事さうに置いてあるゆゑ」
   「佐倉でお風呂を立てると」

 夏目漱石
 「虞美人草」(明治四十年 朝日新聞に連載)
   「佐倉炭の白き残骸」
 「文鳥」(明治四一年 大阪朝日新聞に連載)
   「今朝埋けた佐倉炭は白くなって」

 「彼岸過迄」(大正元年 朝日新聞に連載)
   「佐倉を埋けた火鉢を勧めて」

 「行人」(大正元年 朝日新聞に連載)
   「新しく活けた佐倉炭」

 森鴎外
 「追儺」(明治四二年 『東亞之光』に発表)
  「頭の方を火鉢の佐倉に押附けて燃やす」

 「青年」(明治四三年 『昴』に連載)
  「生けてある佐倉炭がまっかにおこっている」

 国木田独歩
 「節操」(明治四十年 『太陽』に発表)
  「火鉢には櫻炭が埋かって、小さな鐵瓶から湯氣を吐いて居る。」

 「竹の木戸」(明治四一年 『中央公論』に発表)
  「一表八十五銭の佐倉があれだよ」
  「佐倉が四個そっくり無くなっている」
  「土竈炭を袂に入れ佐倉炭を前掛に包んで」
  「『何炭を盗られたの』とお徳は執着くお源を見ながら聞いた。/ 『上等の佐倉炭です』」

 近松秋江
 「別れたる妻に送る手紙」(明治四三年 『早稲田文学』に連載)
  「火鉢の佐倉炭が、段々真赤に円くなって、冬の夜ながらも、室の中は湿とりとしている。」

 有島武郎
 「或る女」(大正8年 刊行)
  「奇麗にかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣の下でほんのりと赤らんでいるのも」

 青木玉
 「小石川の家」(平成六年に講談社から発刊されたエッセイである。佐倉炭の話は祖父幸田露伴の晩年のことであるので、昭和十年代後半と理解される)
  「火鉢の炭は、夕ご飯の始まる前に、佐倉の切り炭を埋け直して灰でしっかり囲う。お燗をつけている間中、一定の火力を持っているように仕度する。 早目に気をつけておかないと出来の悪い炭にあたれば、一酸化炭素が出る」



  <引用文献>

  尾崎紅葉『二人女房』 1993年 岩波書店 106P
  樋口一葉「われから」『現代日本文學体系5 樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集』所収 1978年 筑摩書房 80P
  岡鬼太郎「ひだり馬」『もやひかさ』所収 1908年 佐久良書房 49P,50P
  夏目漱石『虞美人草』2000年 岩波書店 121P
  夏目漱石「文鳥」『現代日本文學大系17 夏目漱石集』一 所収 1980年 筑摩書房 316P
  夏目漱石『彼岸過迄』2006年 新潮社 61P
  夏目漱石「行人」『現代日本文學大系18 夏目漱石集』二 所収 1980年 筑摩書房 215P
  森鴎外「追儺」『現代日本文學大系7 森鴎外集』一 所収 1979年 筑摩書房 169P
  森鴎外『青年』 1989年 岩波書店 151P
  国木田独歩「節操」『日本現代文學全集 6 国木田獨歩集』所収 1978年 講談社 292P
  国木田独歩「竹の木戸」『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』所収 1994年 新潮文庫 256P,265P,268P,274P
  近松秋江『別れたる妻に送る手紙』1997年 講談社 91P
  有島武郎『或る女』1998年 新潮社 257P
  青木玉『小石川の家』1997年 講談社 20P


 2009年3月1日
 節の介さんからメールあり
 佐倉炭情報です。
 臼杵永次郎『林産物製造法』実用教育農業全書第14編 博文館 明治26年  P66から、「第三編 本邦製炭法」として、 下総国佐倉製炭法、熊野製炭法(備長焼及び土佐焼)、 池田製炭法、濃州製炭法について窯の形状や炭材とその 並べ方などが説明されています。
                       以上
(近代デジタルライブラリーにて閲覧)

 11月16日
 節の介さんから、佐倉炭情報のメールあり
 小栗虫太郎「絶景万国博覧会」『絶景万国博覧会』所収(1970年 桃源社)
   P40「なんにしろ明治四十一年の事とて、
(略)
 ましてのこと、結綿や唐人髷などに結った娘達が、四、五人雪洞の 下に集い寄って、真赤な桜炭の上で手と手が寄り添い、玉かんざしや 箱せこの垂れが星のように燦めいている」

 本書は小栗氏の短編を集めた本で、その中の一つ「絶景万国博覧会」に桜炭が出てきます。 初出は昭和10年「ぷろふいる」に発表されました。

 齋藤 賢『齋藤緑雨全集』 巻一(1990年6月 筑摩書房)
 P104〜「大いに笑ふ」一浪士の
 P105 「何がしと申す博土、音樂學校の必要を説くに端唄大全とかいへるものより 最も勢力なき寧ろ唄ふ者もなき程なる俚歌を舉來りて今の所謂唱歌と 高下ある由を示されたり是恰も佐倉炭を保護するに消炭よりも優れりと云ふが如し」
 解題
『読売新聞』明治二十四年一月二十八日から三十一日へかけて連載。 全4回。底本総ルビ。『あられ酒』所収(ごく僅かのルビ)。所収文末に、 (明治廿四年一月)とある。

 11月3日
 節の介さんから佐倉炭情報あり
(1)
2006年6月8日の佐倉本情報の記事内容を次の通り確認しました。
 「少年」明治四十四年六月號『谷崎潤一郎全集』第一巻(1981年 中央公論社)所収
 P157
「待て、待て。、貴様は罪人だから額に入墨をしてやる」 かう云ひながら、其處にあった炭俵の中から 佐倉炭の塊を取り出し、唾吐をかけて仙吉の額へこすり始めた。

(2)
 「冷笑」『荷風小説』三(19861年 岩波書店)
 P131
 朱泥の落しを入れた圓い杉の火桶が一箇づゝ甲斐絹の座蒲團の傍に据ゑられて、 頃合に切つた其の中の櫻炭からは青い焔が閃いてゐる。

 後記 「東京朝日新聞」に1909年12月13日から1910年2月28日まで掲げられた。

  〈返信〉
 ありがとうございました。

 10月30日
 節の介さんから佐倉炭情報あり
 10月10日に連絡した、大阪府學務部編著『女子鑑』(1938年4月 大阪府教育會発行)の佐倉炭情報について。
 記事中の(田邊和氣子の文に據る)の 引用資料が分かりましたので連絡します。

 山澤俊夫編「田辺和気子刀自遺稿」(1901年2月 大日本女学會)  P475〜 第四篇 詞藻 「女のつとめ」の記述があり、 P477(〜P478)に次の通り、桜炭が出て来ます。
 「一、臨時の客へ出すべき火鉢・莨盆などは、毎朝掃除して、 灰をふるひて和らかにし、火鉢には櫻炭をよき程いれ、 灰を火箸にておさへおくべし。
 たばこ盆の火入れには眞中に穴をうがち、灰を丸く押へ、 客あるとき其穴へすぐに火を入るべきやうにし、灰吹には 水を少しいれ、何れも雑巾にて其ふちをぬぐひ置くときは、 客來のとき、すぐに火を入れて持出で、其手順めやすきにいたるべし。
 これに反して客あるとき俄に棚より莨盆など取出し、火を入れて 灰を押えず、塵のかゝりたる儘持出でたるなど、あるじの心の きたなげなるも、おしはからるゝものにぞある。」

 また、同書のP142 第二篇 點茶 「火鉢」に
「(略)炭は櫻の切炭を火にうつして入れ、灰は火箸にて 四方より圓く押へ置くもの・・・」 の記述もありました。

 〈返信〉
 ありがとうございました。

 10月14日
 節の介さんから佐倉炭情報のメールあり
 高杉晋作が唄った桜炭です。 開国論(佐倉藩=佐倉炭)を指していたのでしょうか。

 司馬遼太郎「世に棲む日日(四)」(2003年4月 文藝春秋)
 (慶応元(一八六五)年三月、高杉晋作と伊藤博文が ヨーロッパに行くために横浜出張という名目で 三千両の旅費を長州藩政府が出したので、下関へ出た)
 P157
 この下関で、晋作の病気が出た。芸者をあげて大騒ぎしようと いった。懐中に三千両がある。それにヨーロッパへゆけば 芸者はいまい、といって、二十四日夜、「綱与」という茶亭にゆき、 芸者も末社も総あげするほどの勢いで大騒ぎをした。
 この席で晋作は、
  桜炭 活けた炬燵にうたたねすれば
  夢じゃ吉野の花盛り
 という即興の唄をつくり、みずから三味線をひいて唄った。この 唄はすぐ下関の花街で流行し、大坂の新町や長崎の 丸山あたりまでひろがった。
 晋作にすれば、攘夷はやめた、という 意を篭めたつもりであった。日本を逃げだしてヨーロッパで 夢を見ているうちに吉野の花盛りが来るであろうという意味らしい。
 伊藤博文は日清戦争ののち下関へきて酒席に芸者をよんだところ、 芸者が偶然、この唄を三味線にのせてうたった。
 むろん晋作の作であることも忘れられていて、唄だけで生き残っていた。
 −−もう一度やってくれ。
 と、伊藤はそれを二度うたわせ、聴きながら往時を思い うかべて涙をうかべたという。

 〈返信〉
 面白いですね。桜を佐倉にかけると、また別の意味合いになりそうですね。 佐倉は済み(堀田は終わった・・つまり、幕府は終わった)、それなのに幕府は権力の暖かさに漬かって何もしないでいるようだから、 もう再び(桜の名所である)吉野の桜のような盛りとなることは夢だ(勢いを取り戻すことはできない)
 このように幕府を皮肉り、それをもって勤皇の志士や奇兵隊を鼓舞したのではないでしょうか。・・・かってな解釈です。
 また、吉野山には義経が潜伏したり、後醍醐天皇が吉野山に入って南朝を開いています。そのことからすると、 吉野には特別な想いがあり、幕府に反抗して挙兵することを夢に見る、という意味もとれますが、 後醍醐天皇の京都奪回は失敗に終わるので、そのことを意図していたかわかりません。
 しかし、晋作自身のことをうたったのであれば、このような広がりはなかったと思います。戯れ歌が広がるには、それなりの理由があったと思います。
 戯れ歌には、時の政治に対する批判や皮肉をやんわりと、何かにたとえて表現することがあります。私は、その意味があったからこそ、遊郭で広まったと思います。
 でも、晋作は佐倉のことまで考えていなかったでしょうから、これも確定ではありません。
 佐倉炭は大阪を過ぎて、下関まで知れていたことになりますね。

 10月11日
 節の介さんからメールあり
 大阪府學務部編著『女子鑑』は、編集したのが大阪であり、このことを書いたのは、田邊和氣子です。
 田邊氏の生活圏は分かりませんが、 明治30年頃に、女性の振る舞いに関する著書があるようです。
 編集者は、「大阪」、「昭和」における桜炭の使用の実態とは関係なく あるべき婦女像の教科書として、この記述を引用掲載したものでしょう。
 有名人の妻や有名女性のエピソードや教訓じみたことが寄せ集められている鑑書です。

 10月10日
 節の介さんから佐倉炭情報のメールあり
 佐倉炭情報です。
 大阪府學務部編著『女子鑑』(1938年4月 大阪府教育會発行)
 坤のP185〜199に「女のつとめ」と題して記述があり、P186(〜P187)に次の通り、桜炭が出て来ます。
 「一、臨時の客に出すべき火鉢莨盆などは、毎朝掃除して灰を ふるひて軟かにし、火鉢には櫻炭など程よく入れ、灰を火箸にて おさへおくべし。
 煙草盆の火入れには、灰の中程に穴を 穿がち灰を丸く押さへて、客あるときすぐに火を入るべきやうにし、 又灰吹には必ず少しの水を缺くべからず。何れも雑巾にて 其の縁をぬぐひ置き、來客のときはすぐに火を入れて 持出せるやう、手順よく爲し置くべし。
 これに反して客ある時俄に 棚より莨盆など取出し、慌てゝ火を入れ、塵のかゝりたる 儘持出したるなど、主婦の心の程も見ゆるものぞかし。」とあります。
 なお、「女のつとめ」の末尾に「(田邊和氣子の文に據る)」と記されています。「田邊和氣子の文」については、調査継続中です。

 <返信>
 ありがとうございます。
 昭和13年に発行された本ですね。しかも、大阪まで佐倉炭が知れ渡っていたんですね。私は、このころには佐倉炭は衰退をしていたと考えていました。
 そうすると、備長炭はどうなっていたんでしょうかね。こちらの方も、時間がありましたら探してください。よろしくお願いします。

 10月5日
 節の介さんから佐倉炭情報のメールあり
 「武藏野」第三巻第三号(1920年12月 武藏野會発行)
 白澤保美「武藏野の森林並其特長」に、「佐倉炭も亦此地方に於ける著名の産物にして、昔は下總の舊佐倉領を 産地として此名ありたるも、今は常陸下野等に移り、此地方より多く 産す。炭材は櫟を用ゐ此爲に特に林を作る、火着速く且急に燃ゆる 有様は能く東京人の氣質に類して重寶視せらる。」(P24)とあります。

 <返信>
 ありがとうございました。

 9月15日
 昨日の続き
 <佐倉炭情報>
(3)
 「中外商業新報」1936年11月10日付け
 木炭の常識 : 所に依って異る製炭方法色々
 「佐倉窯は寛政年間下総印旛郡小金ヶ原牧場の川上右仲という人 がクヌギの利用を計り、相州から炭焼夫を招いて人民に製炭法 を教えてから起こったもので、これを佐倉窯というのは佐倉藩 から市場にでるものが多かったのでこれには叩窯と塗窯の二種 がある」
(この文の前の、窯の名称の列挙文中に「佐修窯」という記載がありますが、 誤植かも知れません)
 出典「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」所蔵資料
 中外商業新報 テキスト化

(4)
 「満州日日新聞」1920年11月15日付け
 大連小売物価表 : 民政署殖産課発表
 大連民政署殖産課が調査した、大連市内現在の小売物価の 中に佐倉炭の価格が示されています。
 「佐倉炭六貫俵六〇〇 」(注:記事画像から6円のことだと思います)
 出典「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」所蔵資料
 満州日日新聞 テキスト化

 <返信>
 満州にまで佐倉炭は渡っていたのですか。満州には良質の炭材がなかったということでしょうね。

 9月15日
 節の介さんから佐倉炭についてのメールあり
 2回に分けて掲載します。

  (1)
 「国民新聞」1926年1月17日付け
 石炭の燃焼法(13) 内藤 游
 「火鉢に佐倉炭を焚くときに灰の内に木炭を縦に埋め其頂点に 火種を置くが如きは実に巧妙を極めて居る灰に埋もれた木炭 の下に空気が達する道理はないようであるが炭火より炬った 部分の灰には種火の熱により上騰する空気と交替に冷たい空 気が灰中を降りて炭の底に達するのである。」
 とあります。出典「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」所蔵資料
 国民新聞  画像  テキスト化

(2)
 「横浜貿易新報」 1917年10月11日付け
 暴騰した市中物価
 暴風雨前後の横浜市内の物価調査結果の中に 佐倉炭の価格が示されています。
 「佐倉炭一貫匁 三十二銭 三十五銭」

 出典「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」所蔵資料
 横浜貿易新報 テキスト化

   <返信>
 新聞にあった佐倉炭の資料ですね。
 新しい発見です。ごくろうさまでした。

 8月7日
 節の介さんから、佐倉炭情報です。
 国立国会図書館の 近代デジタルライブラリーで「佐倉炭」と検索すると 『諸国名産図会』(1896年 耕書堂)が抽出され、15コマ目に佐倉炭のことが出ています。

 <返信>
 ありがとうございます。挿図は佐倉炭を生産している様子が描かれており、参考となりました。

 6月25日 
 節の介さんから佐倉炭情報のメールあり
 正岡子規『病牀六尺』(1927年7月 1997年9月第48刷 岩波文庫)
 P147 九十四
 ○上総にて山林を持つ人の話
 (略)
 一、くぬ木は炭となして佐倉へ出す、東京にてサクラ炭といふはこのくぬ木炭なるべき事
 (略)
   (八月十四日)

 ☆☆
  これは、明治35年8月14日のことです(節)。

 6月24日 
 節の介さんから佐倉炭情報のメールあり
 久保木良『島の校長日記(下) −さはら見参−』(1997年6月)
   「佐倉炭(佐倉)
 国鉄総武線南酒々井駅で下車し、国道五十一号線に出る途中に、 佐倉市下勝田地区がある。このあたり一帯が、かつてもてはやされた 佐倉炭が今でも生産されている。まさにほろびようとしたのを市が助成し、 市内に十余基のカマがある。
 火つきが早いとして珍重された佐倉炭は、佐倉市の山林に多い 雑木林のクヌギやナラの木が原料となり、一カマ十俵の炭が出来る。 佐倉炭ガマと称され、多量の炭が生産されるカマを伝えるものとして、 長く生産をつづけてほしいものである。
 佐倉の名産といえば佐倉茶と佐倉炭である。また志津や千代田の 雑木林のある地区にも炭ガマがある。昭和五十二年三月九日掲載」(P180)
 本書は、昭和50年11月12日付けから朝日新聞京葉版に連載したものの 一部だそうです。

 <返信>
 ありがとうございました。

 5月28日 
 佐倉炭F
 備長炭が出てくる小説・エッセイを紹介する。

 久保田万太郎
 「春泥」(昭和3年 大阪朝日新聞に連載)(24)
 「たッぴつに惜しげなくついだ備長の匂があかるい燈火のなかにうごいていた。―かれは沸った鉄瓶の湯を湯呑についでうまそうに一ト口飲んだ」

 青木玉
 「小石川の家」
 「お天気の定まったのを確かめて、お勝手口の洗濯干し場のわきにある物置小屋の掃除をして、炭屋さんに冬仕度をたのむ。 いつも決まった炭屋のおやじが朝から来て、一ト冬分の炭を切り炭にし、物置いっぱいにしていく。乾いた佐倉炭は、シャッシャッシャッと かるい音をたてて切れ、三分の二くらいに切って鋸の背をちょんと当てると気持ちよく折れる。中心から放射状にそろった目は黒く光って、 外側の木の皮もしっかり巻いた良質の炭は、又元の炭俵へきっちり詰め直され、物置に立てて奥から積み上げられてゆく。備長などのかた炭は、 大きなりんご箱にざっとあけると、澄んだ高い音をたてて黒い埃りを少し巻き上げる」

 二つの作品からいえることは、備長炭は昭和になってから作品に出てくるということである。それだけ、備長炭が家庭用燃料としても使われるようになった考えている。
 『小石川の家』では、備長炭と佐倉炭が併用して使われていたことがわかるが、炭の扱われ方は佐倉炭の方が丁寧に扱われている。 佐倉炭の方が備長炭に比べて軟質であるため、丁寧に扱ったということだろうか。(以下、後日)

 5月26日 
 佐倉炭E
 今日、木炭といえば備長炭である。これまで佐倉炭を取り上げてきたが、やはり備長炭が気になるところである。
 備長炭は、『日本国語大辞典』によれば、「和歌山県熊野地方から産出する火勢の強い最上の炭。ウバメガシを材料に、 元禄頃、紀伊国田辺の備中屋長左衛門が作り出したのに始まるという。鋳物師の専用であった。今は製菓・料理など多方面に使われる。」とある。
 これをみると、上質で火力の強い備長炭は鋳金用の燃料に使われてきたため、家庭用燃料には利用されなかったといえる。
 その利用方法は明治時代になっても変わることがなく、そのために小説に描かれることが少なかったのではないだろうか。
 これまで備長炭が出てくる小説は久保田万太郎の『春泥』しか確認しておらず、平成になって青木玉が描いた『小石川の家』を加えても二作品しかない。
 これについては、筆者の探索不足もあろうと思う。(以下、後日)

 5月25日 
 佐倉炭D
 木炭は生活の必需品であり、小説の中では季節や生活を感じさせ、室内の情景や時間の経過を表現したりもする格好の素材であったと考えている。
 佐倉炭が出てくる作品は明治時代から見出せるが、特に千葉県産の木炭生産がピークを迎えた明治39年以降、見出すことができる。
 明治40年に発表された夏目漱石の「虞美人草」、国木田独歩の「節操」、岡鬼太郎の「ひだり馬」。続く明治41年には夏目漱石の「文鳥」、国木田独歩の「竹の木戸」。 明治42年には森鴎外の「追儺」。明治43年には森?外の「青年」、近松秋江の「別れたる妻に送る手紙」に佐倉炭が出てくる。
 筆者が管見した小説の多くは明治40年代に執筆されたものであり、千葉県産の木炭生産がピークを迎えるのと軌を一にして、佐倉炭が出てくる小説も隆盛期を迎えると考えている。
 つまり千葉県産の木炭需要が拡大することにより、身近になった佐倉炭が小説の素材として広く使われるようになったということである。
 夏目漱石は明治40年に朝日新聞の専属作家となり、入社後の初仕事が「虞美人草」の連載であった。この小説に佐倉炭が出てくるほか、3作品にも出てきており、 日常生活においても佐倉炭を使っていたのではないかと思わせる。(以下、後日)

 5月21日 
 佐倉炭C
 明治時代になると廃藩置県により、佐倉藩は消滅する。しかし、江戸時代に評判を得ていた佐倉炭は、その認知されていた名前をもって出荷され続けていた。
 この佐倉炭が総量としてどれほど生産されていたのかということになるが、資料がない。ただ千葉県農林部が編集した『千葉県林政のあゆみ』(9)をみると、 明治以降の千葉県における木炭生産の推移が読み取れる。
 この資料は、佐倉炭を含めた県内における木炭の生産量である。県内では江戸時代より佐倉炭とともに久留里炭が生産されている。
 本書によれば、明治7年の千葉県における生産は250万貫(約63万俵)であったのが、同29年には690万貫(約172万表)、さらに同39年には約800万貫(約200万俵)に増大し、 同44年には約568万貫(約142万俵)に減少したとある。
 また、当時の県内の主要な産地は、県北地域では佐倉炭で知られた印旛郡、香取郡であり、明治36年の統計では90%余りが東京及び神奈川県に移出されていたとある。
 ここに掲げた年は、編者が掲載した明治時代の年である。その意図するところを推察するならば、明治7年は前年に千葉県が誕生しており、千葉県になって初めての木炭生産力が明らかになった年を掲載したと考えられる。
 それは千葉県の木炭生産基礎数値といえる。そして、同44年は明治時代の終わりの年を掲載している。そのことから、同39年は千葉県の木炭生産がピークとなった年を掲載したものと考えられる。(以下、後日)

 5月13日 
 佐倉炭B
 木炭の研究であるが、樋口清之氏の『日本木炭史』(6)によれば、佐倉藩 領内で産出される炭は佐倉で集荷し、千葉の寒川に運んで、そこから船で江戸 に送られるので、下総炭を総称して佐倉炭と呼んだとされている。
 そして、佐倉炭は初め佐倉藩主堀田家の専売であったものが、のち千葉の炭 問屋に委託して江戸へ出荷された。この炭は江戸近在で産出されるため、江戸 への運賃が安く済み、それが安価となった。また、良質であったので、江戸で 評判を得たとある。
 さらに、同氏の『木炭』(7)によれば、江戸時代に江戸市中 消費の炭の最大を占めたのは、千葉県の佐倉炭であったともある。
 これに対し、天下井恵氏は川上宏一郎家の史料を使って、佐倉炭創始者とさ れる川上右仲について考察している(8)。
 この中で、佐倉炭の名称の由来については
「佐倉藩の堀田家は地元名産品を大名や幕府関係者などに贈る時、椚の棒炭 や蒟蒻などを品質が優良なので選びました。そこから佐倉炭・佐倉蒟蒻の名 が江戸で広まったと言います。川上家の伝承では、佐倉炭の名称は佐倉藩に由 来することになります。」とある。
   さらに、佐倉炭の流通については、川上家が万延2年(1861)に松戸から船 積みして江戸川を下り、深川の問屋に出荷した受取証があるという。

 さて、佐倉炭という名称は「下総炭の総称」か、「堀田家が良質な炭を贈ったところから佐倉藩に由来する」ものか、見解の分かれるところであるが、 両説とも佐倉藩・堀田家が何らかの関わりがあったことから佐倉炭と呼ばれるようになったと理解される。
 そして、その主要な生産地は佐倉藩領であった。
 次に佐倉炭の流通については、千葉の炭問屋が寒川から江戸に出荷したというルートと、川上家では直接、深川の問屋に出荷したというルートがあり、出荷ルートは複数あったことが読み取れる。
 推察するならば、通常は佐倉(あるいは千葉)に佐倉炭を集め千葉の寒川から船で江戸に運んでいた。 しかし、佐倉炭を佐倉や千葉まで運ぶより江戸に運ぶほうが近距離(交通の利便性がよい)の地域にあっては、利益を追求する過程で、直接、江戸に出荷するようになったのではないだろうか。 そして、その出荷数量だけ炭問屋が帳簿で決済することも可能でなかっただろうかと考えている。(以下、後日)

 4月23日 
 佐倉炭A
 佐倉炭は、『日本国語大辞典』によると「千葉県佐倉地方のクヌギを材料とした良質の木炭」とある。
 一般的な呼称である木炭が特定の商品名で呼ばれるには、品質が良く、多くの庶民に受け入れられたということであるが、ではいつごろから佐倉炭と言われるようになったのだろうか。
 宝暦3年(1753)以前に著作したといわれている佐倉地方の地誌を記した『古今佐倉真佐子』には、佐倉名物が記されているが佐倉炭はない。
 佐倉炭という名称の初見は、寛政5年(1793)のことである。富塚村(現在の白井市)の川上右仲が相模国から職工を招き、木炭作りを始めたとされる。以来、 盛んとなり、佐倉炭ありといわれるようになった(『印旛郡誌』)。
 続いて、文化11年(1814)、十方庵敬順によってまとめられた紀行文『遊 歴雑記』には、佐倉を訪れた敬順が佐倉炭は関東の名品とほめている。この佐 倉炭は茶事に使われ、産地は八王子や青梅などまで及ぶが、下総佐倉の産を上 品としている。そして、炭の出所は違っても、佐倉の城下にて売りさばくとこ ろから、佐倉炭と称していたとある。
 安政2年(1855)、赤松宗旦によって記された地誌『利根川図志』には、佐倉 土産として佐倉炭、蒟蒻、三度栗、蕨などをあげている。このことから、江戸 時代後期には、佐倉炭という商品名と評判は定着していたといえる。(以下、後日)

  2008年4月12日 
 小説・エッセイに描かれた備長炭

 久保田万太郎
「春泥」(昭和三年 大阪朝日新聞に連載)
 「たッぴつに惜しげなくついだ備長の匂があかるい燈火のなかにうごいていた」

 青木玉
 「小石川の家」(平成六年に講談社から発刊されたエッセイである。佐倉炭の話は祖父幸田露伴の晩年のことであるので、昭和十年代後半と理解される)
 「お天気の定まったのを確かめて、お勝手口の洗濯干し場のわきにある物置小屋の掃除をして、炭屋さんに冬仕度をたのむ。いつも決まった炭屋のおやじが朝から来て、 一ト冬分の炭を切り炭にし、物置いっぱいにしていく。乾いた佐倉炭は、シャッシャッシャッとかるい音をたてて切れ、三分の二くらいに切って鋸の背をちょんと当てると気持ちよく折れる。 中心から放射状にそろった目は黒く光って、外側の木の皮もしっかり巻いた良質の炭は、又元の炭俵へきっちり詰め直され、物置に立てて奥から積み上げられてゆく。 備長などのかた炭は、大きなりんご箱にざっとあけると、澄んだ高い音をたてて黒い埃りを少し巻き上げる」

 二つの作品からいえることは、備長炭は昭和になってから作品に描かれているということである。つまり、備長炭は鋳物師専用の炭であったが、時代が下がるにしたがって 日常的な燃料としても使われるようになり、昭和初期には作品に描かれるほどになったと考えている。

 引用文献
 久保田万太郎『春泥・三の酉』 2002年 講談社 108P
 青木玉『小石川の家』1997年 講談社 35P

 4月11日 
 小説に描かれた佐倉炭は、一昨日までの記載が私の把握しているものであるが、それでは備長炭はどうであったのかというところが気になる。
 備長炭は、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「和歌山県熊野地方から産出する火勢の強い最上の炭。ウバメガシを材料に、元禄頃、紀伊国田辺の備中屋長左衛門が 作り出したのに始まるという。鋳物師の専用であった。今は製菓・料理など多方面に使われる。」とある。備長炭は、地名や地域の名前ではないのである。これが佐倉炭と違うところである。
 これをみると、上質で火力の強い備長炭は鋳金用の燃料に使われてきたため、日常的な燃料には利用されなかったといえる。 その利用方法は明治時代になっても変わることがなく、そのために小説に描かれることが少なかったのではないだろうか。
 これまで私が把握した小説、エッセイは、久保田万太郎の「春泥」と、青木玉の『小石川の家』である。引用は後日。

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