三遊亭金馬(三代目)の列車事故 【2009年5月7日〜 】 5月15日 節の介さんからメールあり 金馬の鉄橋事故情報です。 (5)毎日新聞(昭和29年2月6日)朝刊 三遊亭金馬重体 総武線ではねられる。 【成田発】五日午後零時四十五分ごろ*(15文字ほど不鮮明)* 先鹿島川第一鉄橋近くで、つり帰りの落語家三遊亭金馬 は貨車の入替作業に気をとられ列車に気づかず 総武線上り四二〇列車=機関士○○○○にはねとばされ 左足首を切断、国立佐倉病院に収容した。 (6)地図(時代:市役所は新町に。鏑木橋を通る県道は記載) 高崎川の樋之口橋と鏑木橋の間の北側に「澱粉工場」の 記載があります。(現在のスーパー「いなげや」の付近です) 〈返信〉 ありがとうございました。 5月14日 Sさんからメールあり ご連絡ありがとうございました。昔父が良く金馬が釣りに来て鉄橋事故に あった話をしていましたが、これで場所がはっきりしました。 長熊の先の鉄橋ですと川幅が小さくどうも事故にあうのが不自然でした。 駅の近くのこの鉄橋ですと、そこそこ長さもあり十分あり得ます。それに 長熊先の鉄橋ですと、タナゴ釣りが出来ないわけではないですが、流れが結構あるので不向きです。 樋之口橋の上流から下流は父と私でタナゴ釣りに良くゆきましたので、こ ちらが事故現場で間違いないでしょう。 いろいろ調べると面白いものですね、昔が思い出され楽しかったです。あ りがとうございました。 <返信> これからも、情報をお待ちしています。ありがとうございました。 5月13日 ホームタウン佐倉さんから金馬についてのメールあり こんばんは。鉄橋は佐倉駅の東側にあるのは正式には「鹿島川第一橋梁」、当時 は総武本線と成田線がそれぞれ単線で渡っていました。 長熊の分岐点と南酒々井駅の中間にあるのが「鹿島川第二橋梁」で、これは総武本 線だけが通過しています。 金馬が撥ねられた鉄橋がどちらかといえば「鹿島川第一橋梁」が現場ということになります。 その根拠は新聞記事に「銚子発千葉行上り四二○列車」と記載があること。当時の 列車番号は総武本線列車は三百代、成田線列車は四百代ですから、本線列車のみ が通る「鹿島川第二橋梁」では絶対にありえません。 同記事の「佐倉・酒々井間」も成田線の傍証になります。 また『浮世だんご』には顔なじみの呑み屋の主人がいたという話も佐倉駅から、至近な 「鹿島川第一橋梁」ということになりましよう。、南酒々井には昔から呑み屋はなかった 筈です。 なお、佐倉ー物井間の鉄橋は「物井川橋梁」が正式名称です。 今回の皆様の調査で、私自身も事故現場が特定できたことを喜んでいます。 <返信> 金馬が鉄道事故にあったのは、昭和29年2月5日、鹿島川第一橋梁ということになりますね。これを文庫での確定とします。 千葉市のSさんからメールあり 成田線ではなく、総武本線だとすると佐倉駅と南酒々井間の鉄橋で小さいものがありますが、 これだとたいして長くないですね。 あとは、佐倉駅を出てすぐのところの高岡の鉄橋が該当しますが。 5月12日 節の介さんからのメール。昨日の続き。 (3)『金馬のいななき 噺家生活六十五年』 著者:三遊亭金馬(四代目) 発行:朝日新聞社 2006年3月 P154 師匠の鉄道事故 昭和二十九年(一九五四)二月五日、師匠が鉄道事故に遭いました。 千葉の印旛沼にタナゴを釣りに行っての帰り道、総武線の鉄橋の うえを歩いていたところを上り列車にはねられて、病院に 担ぎ込まれたのです。 事故が起きたのは昼の一時ごろで、そのまま国立佐倉病院に 緊急入院。左大腿部と足首に重傷を負いました。 (略)師匠は国立佐倉病院で応急の手当をしまして、それから 寝台自動車で赤坂の前田病院へ運ばれました。 (略)師匠は印旛沼にはしょっちゅう出かけていまして、帰りは いつも総武線の線路を伝って歩いていたのです。もう、電車の ダイヤも全部頭に入っていたから、この時刻は鉄道が来ない、 大丈夫だと思い込んでいたところにうしろから車輛が来たのですね。 (4)朝日新聞(昭和29年2月6日)朝刊 「金馬はねらる 成田線鉄橋で」 【千葉発】五日午前十一時四十五分ごろ成田線佐倉−酒々井間鉄橋を 歩いていた三遊亭金馬は銚子発千葉行き 上り四二〇列車=○○○○機関士にはねられ、左モモ二カ所、 左足首などを骨折、佐倉町国立病院で手当中だが重体。 同病院では「左足首から切断しなければならぬだろうが、心臓も弱り 出血も多いので心配だ」といっている。佐倉地区署の調べでは、印旛沼 方面にツリに来て近道しようと鉄橋を渡ったものらしい。 〈返信〉 これで、金馬が鉄道にはねられた月日がわかりました。節の介さんの資料調査に感謝します。 はねられた場所が成田線の佐倉―酒々井間の鉄橋になりますね。千葉市のSさんからいただいた長熊の先という話と 合致します。 ホームタウン佐倉さん、この鉄橋の名前がわかりますか。 5月11日 節の介さんから金馬の情報をいただきました。 金馬の鉄橋事故情報です。 (1)『江戸前の釣り』つり人ノベルズ(赤6) 著者:三遊亭金馬(三代目) 発行:鰍ツり人社 1992年9月 (『江戸前つり師』(1962年徳間書店刊)の復刊です) P19 ぼくは、この小さなタナゴに魅せられて、千葉県佐倉の 鹿島川の鉄橋で汽車にはね飛ばされ、半年も入院したのだから、 実にあっぱれなものと自分でも思っている。 P21 昭和二十九年、ぼくがケガをした年の日記を見ると、 (これらの記述は、5月7日の記事と同じですね) (2)『浮世だんご』つり人ノベルズ(赤12) 著者:三遊亭金馬(三代目) 発行:鰍ツり人社 1993年9月 (『浮世断固』(1959年有信堂)の復刊です) P226 怪我をした昭和二十九年はちょうど甲牛年で、 ぼくが明治二十七年甲牛年生まれの本家帰りである。 (略)二月の五日は朝起きてみると (略)近い所と思って千葉県佐倉の鹿島川がよかろうと、 一人で決めて釣り場に行ってみると、どこかの澱粉工場から 流したか、「ヌル」が「海苔ヒビ」のようになっている。 これでは釣りにならないと十一時頃に竿をしまって、 線路づたいにぶらぶら歩く。 (略)汽車が近づいてきたら 土手から降りればよい。と思いながら、いつか鉄橋へ かかっていた。どこかで初午の太鼓が聞こえる。真ん中まで くるとあとからピーピーピーピーと汽笛を盛んに鳴らすが、 鉄橋の上でかけだすことも、横に避けることもできない。 「猫は魔のもの」というが、「事故は魔のもの」といいたい。 ドカンときて、二、三間はねとばされたとみえる、気がついて みると汽車はとまって、人が大勢集まっている。腰の手拭を とって大腿部をゆわえて、誰かに「手伝ってください」と 止血をして蟇口から名刺をだして名乗りを上げてしまった。 (略)「なんだ、噺家の金馬じゃないか」 という声も聞こえた。誰かが梯子をかけて、 「これへ乗れるか」 といった。乗ってみようと左足先を見ると、長靴が切れて 血がでている。佐倉の国立病院へかつぎこまれるまで、 むやみやたらと喋ったらしい。 (略)あれが昏睡状態というものか、佐倉は何度もタナゴ釣りにいくので、 駅員から売子まで顔見知りだ。駅前でいつも釣りの帰りに飲むそば屋の 親父の顔も見える。 (略)佐倉の病院では思うように手当ができないからというので 赤坂の前田病院へ寝台自動車で移された。 〈返信〉 ありがとうございます。 『金馬のいななき 噺家生活六十五年』の紹介は後日にします。 5月10日 千葉市のSさんからメールあり 久しぶりです。金馬の話は昔父から聞きましたが、鹿島川の鉄橋ではなく支 流の高崎川の鉄橋ではないでしょうか。 場所は、長熊の先と聞いてますが、違いますでしょうか。父は長熊の出身で すが、なにぶんにも昔の話です。 〈返信〉 情報、ありがとうございます。 たぶん、東京から見れば金馬は高崎川も鹿島川という認識であったのかも知れませんね。 情報をお待ちしています。 5月8日 昨日の補足 三遊亭金馬(三代目)の事故情報をいただいたのは4月半ばでした。ところが、出典がわからないので掲載することをしませんでした。 アマゾンで金馬の本を探したら『江戸前つり師』がありました。この本を注文する一方、鉄道に詳しいホームタウン佐倉さんに メールを送り、話を聞いた次第です。 ホームタウン佐倉さんからの返信と、前書で佐倉の事故を確かめられたので掲載することにしました。そのようなことで、 昨日の掲載文章は、10数日間の間隔があります。 また情報提供者から、この鉄橋は亀崎鉄橋でしょうか?というコメントもありました。 ところで、情報提供者からは、金馬が事故にあった日は昭和29年2月5日と聞いたのですが、『江戸前つり師』の文では 昭和29年までしか、たどれません。しかも『江戸前つり師』の文は文中から探したものであり、「プロフィールにある」もの、著者略歴では ないのです。もしかすると、情報提供者の情報は、落語の本(全集)とかCDに書かれたプロフィールなのかも知れません。 どなたか、落語に興味のある方がいましたら教えてください。 それから、ホームタウン佐倉さんのメールにありましたが、「俺は金馬だ。金馬だと言っていた」本を探す必要がありますね。 これは、郷土資料のどこかにあるのでしょう。以前に出されていた『佐倉地方文化財』とか『佐倉地方文化』などにあるかも知れません。 どなたか、よろしくお願いします。 2009年5月7日 〈ホームタウン佐倉さんへ〉 見つけました。 三遊亭金馬『江戸前つり師』(徳間文庫 1988年)に書かれています。 「ぼくは、この小さなタナゴに魅せられて、千葉県佐倉の鹿島川の鉄橋で汽車にはね飛ばされ 半年も入院したのだから、実にあっぱれなものと自分でも思っている。」(18頁) 「昭和二十九年、ぼくがケガをした年の日記を見ると、」(19頁)、怪我をした年がわかります。 ただ、この本には事故に合った日が書かれていないので、情報をいただいた方は別な本から知ったのでしょう。 金馬は釣日記を書いていますから、金馬の日記が記された本を見ているのでしょうかね。 〈ホームタウン佐倉さんからメールあり〉 三遊亭金馬が鹿島川鉄橋で汽車に跳ねられたのは事実です。この事故で 左足が不自由になり、正座できなくなって、あぐらで座らざるを得なくなった ため、高座では見台(笑点で司会者の前に置いてある台、落語家は一般に は用いず、講談師が使っている)を前に置いて口演しました。 以前、市民の方の「おもいで集」(誌名、題名、執筆者名は 記憶になし)を手当たりしだい濫読した際に旧駅員の某氏が「跳ねられた人 を運んだ際に「俺は金馬だ。金馬だ」と言っていたが、あとで落語家の金馬と わかってビックリした」と書いていたのを覚えています。 〈ホームタウン佐倉さんへ〉 教えてください。 落語家で三遊亭金馬(三代目)が、昭和29年2月5日、佐倉の鹿島川にタナゴ釣りに出かけた帰り、 鹿島川の鉄橋上で汽車にはねられ、左足に重傷を負ったそうです。 彼のプロフィールにあるそうですが、どの本に書かれているかご存知ですか。 知人からいただいた情報ですが、聞いた話なので確定できません。 トップページ |