第5回(平成20年)情報大賞候補

 この賞は、その年、満開佐倉文庫に寄せられた佐倉本情報、佐倉情報、佐倉の自然情報の中で、私たちに一番感動を与えた情報、または佐倉再発見の本となるものに贈るものです。
 本年度の選考会は、12月13日(土)、公民館で行われ、出席者5名で選考しました。
 本年度の大賞には、節の介さんがグーグルのサービスを使って作ってくれた地図情報(候補6)でした。次点は、やはり節の介さんが作ってくれたサイト内検索(候補7)と、『評伝 大鳥圭介 −威ありて、猛からず−』(候補3)でした。
 




 【候補1 】 「吉村昭 − 歴史の記録者」(2008年2月 河出書房新社) に佐倉に来た時の取材話あり

 ホームページ掲載日 2008年3月30日
 情報提供者 えりっぷさん 


[メール]
 佐倉の文字を見つけたのでお知らせです。「吉村昭ー歴史の記録者」(2008年2月 河出書房新社)
 対談「十六年のタイムラグー『仮釈放』をめぐって」のなかで「僕は小説を書き始めた二十代の時から、フィクションでも割りと調べるのです。だからそれが自然と習い性になってしまっていて、 ここに出てくる菊谷が故郷の佐倉へ行く時なんかも、小説の中と同じように、夜に行ったんです。明かりが見えるかどうか、とかを調べる。 もちろん一つ前の駅から小説のように歩いたわけでなく、タクシーですが」(183P)とありました。
 初出は1988年の「波」とありますので、ご存知かと思いますが一応のお知らせです。

[推薦理由]
 立松和平氏との対談の中で吉村氏が話した言葉です。作家が『仮釈放』を描くにあたっての心構えが書かれていまして、 佐倉にゆかりのある小説として『仮釈放』を話すときの参考になります。 「16年間の刑務所暮らしという設定にしましたから、そういう人が僕たちの生きている世界をどう見るだろうかというのは 一つの関心事でしたね」とありました。




 【候補2 】  日下公人・石平『日本と中国は理解しあえない』(2008年6月 1400円 PHP研究所)に佐倉の写真あり

 ホームページ掲載日 2008年6月4日
 情報提供者 レントさん 


[メール]
 本書に佐倉の武家屋敷の写真が掲載されていました(85P)。内容とは関係がありません。

[推薦理由]
 そうです。このような本に佐倉の写真が掲載されるなんて、考えてもいませんでした。本書には「石平写真館」として、ところどころに日本の 風景や囲炉裏、敷き石などの写真が掲載されています。いってみれば「日本のよさ」というのでしょうか。京都・詩仙堂、醍醐寺、 岡山・倉敷、萩の武家屋敷庭園など。その中の1枚に選ばれているんです。




 【候補3 】 高崎哲郎『評伝 大鳥圭介 −威ありて、猛からず−』(2008年4月 鹿島出版会)に佐倉の人物が出てきます

 ホームページ掲載日 2008年6月12日
 情報提供者  節の介さん 

 大鳥圭介の戊辰戦争、欧米視察、工部大学校長、清国公使などの足跡の中に佐倉ゆかりの人々が随所に出ています。  

[推薦理由]
 林董、木村隆吉、西村茂樹、津田梅子、津田仙など。それほど、佐倉の人とかかわりが深かったということでしょう。

 




【候補4】  森史朗『松本清張への召集令状』(2008年3月 文藝春秋)

 ホームページ掲載日 2007年3月11日
 情報提供者  亀田雄岳 

 松本清張に『遠い接近』という推理小説がある。これは主人公である山尾信治が教育召集によって佐倉にあった歩兵第57連隊に入隊し、そのまま本召集となり、朝鮮に動員される。 そして、ニューギニア方面に派遣されるのではないかという心配をしながら終戦となる。
 山尾への召集令状であるが、普段、町内会の教練にあまり参加しなかったところから「ハンドウを回された」とみなされ、区役所の兵事係長によって故意に選ばれたと考える。その復讐である。
 当時、東京に住んでいた人も57連隊に入営しているが、動員されるところは満洲の孫吾であった。その後、レイテである。森史朗氏は、清張が、その辺のストーリをどのように組み立てたのかを考察している。
 清張は、臨時召集として久留米の第86師団歩兵第187連隊に入隊し、朝鮮に動員となった。つまり、小説の連隊名は57連隊であるが、実際の連隊行動は187連隊を記しているといえる。
 本書を読んだあと、ふたたび『遠い接近』を読みなおした。『遠い接近』では、57連隊に入隊した初年兵のことが綴られるが、これも187連隊のことであったといえる。




[推薦理由]
 『遠い接近』を語る上での参考となる。




【候補5】 森鴎外『即興詩人』森鴎外全集10(1995年12月 筑摩書房)

 ホームページ掲載日 2008年10月12日
 情報提供者  K3さん 

『即興詩人』は、アンゼルセンの小説を翻訳した作品。翻訳に9年の歳月を費やした。この序文は「明治35年7月7日下志津陣営に於いて」書かれたとあります。  当時、鴎外は軍職の身にあり、原稿は大抵夜間、もしくは大祭日、日曜日にして家にあり、客がこないときに書いたものと記しています

[推薦理由]
 下志津は陸軍の軍用地でしたから、砲兵の射撃訓練に使われていました。その関係で、鴎外は下志津を訪れたのでしょう。それにしても、よく序文にまで目がいきましたね。




【候補6】 節の介さん作成の「地図情報」

 ホームページ掲載日 2008年随時
 情報作成者  節の介さん

 今年、節の介さんから、グーグルの地図サービスを使って、佐倉に関したいろいろな地図情報を作成していただきました。

[推薦理由]
 このような情報も、情報大賞の候補です。




【候補7】 節の介さん作成の「満開佐倉文庫サイト内検索」

 ホームページ掲載日 2008年11月13日
 情報作成者  節の介さん

 サイト内にある文字を探せるようになりました。

[推薦理由]
 この検索機能によって、みなさんからいただいた過去の情報が、またたくまに検索できるようになりました。 文庫の使い勝手は格段に向上しました。




  【候補8】 栃木県さくら市と佐倉市はつながりがあった

 ホームページ掲載日 2008年11月17日
 情報作成者  亀田雄岳

  栃木県にさくら市が誕生したのは2005年。塩谷郡氏家町・喜連川町が新設合併して誕生した。 この旧氏家町に佐倉藩領がありました。
 氏家町史作成委員会編『氏家町史』上巻(1983年3月 氏家町)
 「寛延3年(1750)2月4日、宇都宮領の内、68カ村は佐倉領(堀田相模守)に変更となり、桜野村に陣屋を置き、安永4年(1775)までの25年間佐倉領となった。
 (略)佐倉領陣屋は、桜野村の清兵衛の屋敷の裏側に間口50間、縦60間の場所を提供させて設営し、8月14日に完成した。
 (略)桜野陣屋には佐倉より代官2名、勘定方、徒目付、下目付、手代、門番などの役人が出張して行政を担当していた。 堀田相模守正亮は徳川家光に殉死した堀田正盛の三男正俊の孫で、山形より十万石で佐倉藩主となる。
 (略)宇都宮領内の塩谷郡のうち57カ村が佐倉領となり、氏家町では桜野村、押上村、松山村、松山新田村、狭間田村、狭間田新田村、谷中新田村、根本新田村、 柿木沢などが桜野陣屋に支配された。
 佐倉藩は宇都宮藩より善政を行ったのか、塩谷町大宮の諸杉に堀田相模守の仁政の碑がある。高さ90センチメートル、幅31センチメートルの安山岩の石碑の 正面には『堀田相模守様』と筆太に刻まれている」(246P)
 とあります。

[推薦理由]
 さくら市と佐倉市につながりがあったことは驚きです。 




 
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