第4回(平成19年)情報大賞

 森銑三他編『随筆百花苑』第十三巻(1979年11月 中央公論社)

  ホームページ掲載日 2007年6月20日
  情報提供者  佐賀のMさん 

  大賞理由 下段の【候補7 】をご覧ください。




   第4回(平成19年)情報大賞候補

 この賞は、その年、満開佐倉文庫に寄せられた佐倉本情報、佐倉情報、佐倉の自然情報の中で、私たちに一番感動を与えた情報、または佐倉再発見の本となるものに贈るものです。
 今年はすぐれた情報が多そうなので、気づいたものから順不同で掲載していきます。なお選考会は12月に行います。


 【候補1 】  畠山清行著『秘録 陸軍中野学校』に、歩兵第57連隊の記載あり

 ホームページ掲載日 2007年7月26日
 情報提供者  水戸市のUさん 


[メール]
 僕は昔から畠山清行の実録歴史物が好きで愛読してきました。先日新潮文庫版の畠山清行著『秘録 陸軍中野学校』を読み返していたところ、思わぬところに、千葉佐倉第57連隊のことが出ていました。 少々長くなることをお許し願えるなら、紹介したいと思います。

「たとえば、その中の一人、小林美文大尉(終戦時中佐)は、日中事変勃発当初の昭和12年8月、歩兵第三連隊の中隊長として、錦州から熱河を横断、張北から万里の長城を超えて張家口に攻め入った大作戦に従軍していた。この(略)迂回作戦は、のちに映画にもなった。

(略)そのころ、満州に移駐して泰安鎮にあった第一師団の歩兵第一連隊と歩兵第三連隊、それに千葉県佐倉の第57連隊の一大隊、大阪の野砲第四連隊で、応急派兵の旅団を編成したもので、数十倍にあまる敵軍の真っただ中へなぐり込み、現役兵の強さ遺憾なく発揮した戦いであった。

(略)また、同時に中野入りした川島威伸中尉も、佐倉第57連隊朝生大隊大十中隊の小隊長(当時少尉)としてこの戦闘に参加し、張家口の手前の八角台で威力偵察を命ぜられた。八角台は、敵がこの日にそなえ、山麓から頂上まで岩石を掘り抜いて築いた幾十段のトーチカ陣地で、全山これみな敵の堅塁である。」
という張家口の戦いに佐倉第57連隊が出てきます。以上、紹介でした。


[推薦理由]
 古い映画ですが、市川雷蔵主演の映画「陸軍中野学校」の冒頭、主人公三好次郎がスパイになる前に配属されていた連隊が映し出されます。その連隊が歩兵第57連隊でした。つまり、佐倉の歩兵第57連隊に配属されていた士官候補生がスパイになるという話が、映画「陸軍中野学校」です。(「映画」の項目に詳細があります)
 映像は、ほんの10数秒だけ三好次郎が営門を通過するときに連隊の看板を写しました。その連隊名が歩兵第57連隊と記されていたのです。佐倉と関係のある映像はそれだけで、あとは、まったく関係がありません。佐倉にこだわっていなければ、見過ごしていたでしょう。
 ただ増村保造監督は、どうして主人公を歩兵第57連隊の士官候補生に設定したのかということがわかりませんでした。別に佐倉連隊でなくてもよかったはずです。
 しかし、Uさんからメールをいただいたとき、映画のヒントになる話が畠山清行著『秘録 陸軍中野学校』に記されていると私は判断しました。
 市川雷蔵演ずる主人公三好次郎陸軍少尉のモデルは、佐倉第57連隊朝生大隊大十中隊の小隊長(当時少尉)川島威伸中尉でなかったかと考えた次第です。であるとするならば、三好次郎が57連隊の門を通過するのは不思議でなく、増村監督は小説に忠実に従った、と理解したのです。
 
 Uサンからメールあり
 市川雷蔵主演の映画『陸軍中野学校』を観なおしました。なるほど、冒頭雷蔵扮する主人公の三好次郎陸軍少尉は「57連隊」と看板のかかっている所に入っていきますね。  そして、連隊長の推薦で加東大介扮する草薙中佐の奇妙な試験を受けるのです。
 これは当時中野学校の受験が各連隊長推薦の成績優秀な者であった事実と一致します。あきらかにこの大映映画『陸軍中野学校』は当時週刊サンケイに連載されていた畠山清行(当時のペンネームは違う)の作品が原作となっていますね。

 〔追補〕
 前段の文章を掲載し終えて、さて、その確証はどのように求めようかと考えました。そこで、映画と小説の発表時期を並べてみました。すると、映画は昭和41年上映。小説は昭和46年刊行となっており、話が逆転してしまいました。
 ところでUさんのメールにあった『週刊サンケイ』に掲載された年は、いつであったのかということになりました。
 そのように思いつつ、畠山清行『秘録 陸軍中野学校』の「編者まえがき」を読みましたら、次のようなことが書いてありました。
 「そもそも本書は、畠山氏が昭和40年10月から「週刊サンケイ」誌上で連載した「秘密戦士 陸軍中野学校」が原型である(この連載がきっかけで、 市川雷蔵主演の映画「陸軍中野学校」も企画された)。そのために文章もドキュメントタッチ、あるいは講談調ともいえる非常に分かり易い文体で編まれている。」
 とありました。よって、増村監督は、思いつきで57連隊の看板を出したのではなく、小説を基に57連隊の看板を出したといえます。
 考えてみれば、雑誌への連載が昭和40年10月から始まり、映画は翌年の上映ですから、主人公を57連隊以外の設定にしては畠山氏の理解が得られないでしょう。(2007年11月18日)




 【候補2 】  山田廸生(やまだみちお)著『船にみる日本人移民史』(1998年 中公新書)に佐倉丸の記載あり

 ホームページ掲載日 2006年12月24日
 情報提供者  えりっぷさん 


[メール]
 佐倉丸のことですが、移民関係から探ってみたところ見つけました。山田廸生(やまだみちお)著『船にみる日本人移民史』(1998年 中公新書)にのっていました。
 「第一章明治・大正期の移民船 ペルー移民第一船佐倉丸 」の項目に「佐倉丸は日本郵船の船である。2953総トン。1887(明治20)年に英国で建造された鋼製汽船で、日清戦争のときに政府が購入し、  戦後払い下げられたものだ。船名はそのころ歩兵第二連隊があった千葉県の佐倉にちなんでいる。日露戦争中に旅順港閉塞作戦で自沈し、壮烈な最期をとげた。」(53頁)佐倉です!

[推薦理由]
 佐倉丸の名前の由来が、当地「佐倉」の地名に由来するであろうということは推測していた。それは陸軍の営所が佐倉に置かれていたこと、また他の船もそのような陸軍にゆかりのある地名の名前が つけられた船があることなどから推測できた。しかし、その確証がこれまで見出せなかった。
 本書は、その確証を示したものであり、価値があるといえる。しかもその船がペルー移民の第一船になったという歴史的な船でもあった。


 【候補3 】  最相葉月『青いバラ』(2001年5月 1600円 小学館)

 ホームページ掲載日 2007年2月22日
 情報提供者  Iさん 

 「日本のバラの父」と呼ばれる鈴木省三という人が八千代市に住んでいた。鈴木氏が生涯に作出したバラは108品種。しかし、彼は京成バラ園芸という企業の社員であるため、鈴木氏の新品種は京成バラ園芸の商品であり、カタログを見ても鈴木氏の名前が記されることはなかった。

 「佐倉にローズガーデン・アルバというバラ園があって、前原君という男がいます。たくさん珍しいバラがありますので、彼に説明をしてもらってください」(107頁)
 「しばらくすると、車は東邦大学医学部附属佐倉病院の左手の細い道を入って数十メートル走ったところで止まった。左手にバラのアーチ、足元には濃い色の柔らかそうな地面が広がり、一瞬、映画のセットのように思えた。周りで背の高い建物といえば病院しかない新興住宅地に、忽然と現れたユートピアのようだった。
 車を降りた途端、全身が柔らかな花の香に包まれた。アーチの脇には、『バラを愛するみなさまへ』と書かれた木製の看板があった。
 ローズガーデン・アルバは自然環境を保護し、バラの貴重な原種を保存して、いずれはバラの博物館づくりを目指しています。入園料は三つの目的及び維持管理費にあてさせていただきますので、ご協力をお願い致します。
 アーチをくぐると、左手に鈴木省三コレクションのコーナーがあった。」(109頁)
 「赤バラのルーツ、白バラのルーツ、黄バラのルーツ。見慣れた現代バラの美しい色、香り、かたちや樹型は、こうした野生種や雑種から伝えられたものだった。時代をさかのぼっていくと、いかに人間がこの花に手を加え、自分たちの美意識のもとに新しい品種をつくり出していったのか、ヨーロッパの植民地戦争を背景としたプラントハンティングが何をもたらしたのか、手にとるようにわかるのだった。
 バラの歴史とはまさに、人間の歴史だった」(112頁)
 筆者は、鈴木氏に世界中の人が試みているが未だに叶わない「青いバラ」をつくりたいと思ったことはありませんかと尋ねた。
 すると、「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」(6頁)といわれた。

 現在、ローズガーデン・アルバにあったバラは「佐倉草ぶえの丘」という施設に移植されて、毎年、すばらしい花をつけている。
 本書は鈴木省三のバラにかけた生涯を綴った本であるが、バラの世界史や、バラの知識に関することが詳細に書かれている。バラファンに一読を薦めたい。
 なお、「草ぶえの丘」のバラ園について
  植栽品種 800種類
  植栽本数 1,800本
 【世界の原種園、バラの歴史園、オールドローズガーデン、アジアのバラガーデン、鈴木省三コーナー】がある。
 さらに本書には佐倉ゆかりの津田仙、松本良順、林董、依田学海の日記『学海日録』が記されていた。

[推薦理由]
 「日本のバラの父」と呼ばれた鈴木省三のバラが佐倉で見られるだけでも幸せ。しかも、その集める情熱やバラの歴史がわかり、薀蓄が語れる。  




【候補4】  日本歩け歩け協会編『1日1万歩 日本の旧街道ウォーキングガイド(東日本編)』(1997年4月 実業之日本社)

 ホームページ掲載日 2007年3月11日
 情報提供者  節の介さん 

 成田道 メーンコース・・・佐倉城跡、甚大寺、佐倉順天堂跡、佐倉厚生園、歴博。佐倉城跡の解説文及びコース延長・高低差の説明図あり。(104-107頁)
 本書では、高低差をグラフの縦軸にしているような見出しがグラフの横に付いていますが、縦軸は国土地理院の地形図の標高であり「0」は海抜です。このコース図から次の情報が読めます。

 京成佐倉駅(約3m)<1300m・2000歩>
 順天堂(約32m)<3000m・4615歩>
  経由地点 鏑木町(約22m)
       新町(約33m)
 佐倉東高校前(約33m)<700m・1077歩>
 歴博(約33m)<1000m・1538歩>
 京成佐倉駅(約3m)
 総延長6000m 消費カロリー230kcal
 (注)地名の一部は紹介時に補足  標高は図の高さ目盛りからの読み取り値。歩幅は、「1歩の歩幅を65cmとして計算してあります」

 〈返信〉
 城下町散歩の高低差や歩数などか書いてあるのには驚きました。さすが日本歩け歩け協会だと思いました。
 佐倉の海抜0mから、京成佐倉駅が3m高く、さらに歴博が30m高い場所にあるんですね。それから佐倉の標高が、だいたい32〜33mなんですね。

[推薦理由]
 情報提供を受けたときには、さほどの感動は沸かなかったが、改めて全体を通して眺めてみると、今までになかった佐倉の切り口でないかと考えた。
 佐倉を標高で見たり、歩数で数えた本はなかったのではないだろうか。小説や研究書ではないが、棄てがたい内容である。




【候補5】  「協和私役」窪田子蔵収録『日本庶民生活史料集成』第4巻 探検・紀行・地誌・北辺篇(223-270頁)(高倉新一郎編 1969年6月 三一書房)

 ホームページ掲載日 2007年3月22日
 情報提供者  節の介さん 

 佐倉藩士、窪田子蔵の蝦夷地調査時の日記についての情報です。「協和私役」窪田子蔵収録『日本庶民生活史料集成』第4巻 探検・紀行・地誌・北辺篇(223-270頁)(高倉新一郎編 1969年6月 三一書房)
 編集委員の解題の一部を抜粋します。安政3年・・・外国掛老中、下総佐倉藩主堀田備中守正篤は藩士窪田子蔵等三人を派し、子蔵等は六月二十三日函館を発して西海岸を北上して宗谷に到り、樺太に渡ろうとしたが季節が後れ、断念してオホーツク海を東に出、北海道を一周して帰り、日記体の報告書『協和私役』を残した。
 翌年の安政四年には、今村治郎橘らが派遣され、「蝦夷日記」を残している。

[推薦理由]
 佐倉藩主堀田正睦を考える上で貴重な本である。正睦は老中でありながら、外国掛という役職が加わり、外交問題も携わらなければならなくなった。
 そのために佐倉藩士を蝦夷に派遣して国境の情勢を探らせていたのである。




【候補6】 『植物文化人物事典 江戸から近現代・植物に魅せられた人々』(2007年4月 日外アソシエーツ株式会社)

 ホームページ掲載日 2007年5月21日
 情報提供者  えりっぷさん 

 サクラオグルマの発見者与世里盛春さんについて、やっと略歴が載っている本を見つけました。『植物文化人物事典 江戸から近現代・植物に魅せられた人々』(2007年4月 日外アソシエーツ株式会社)
 「明治23年4月17日〜昭和51年8月20日 教育者、植物研究家 小御門農学校校長沖縄県出生。沖縄師範学校卒。千葉県の成東中学校教頭を経て、昭和14年同県小御門農学校校長となる。  牧野富太郎の指導を受け、独自の博物教育を実践した。県中学博物研究会などの結成に参加する。郷里・沖縄の研究書も残した。著書に「千葉県の植物」「大和民俗の由来と琉球」など。」(559頁)
 また、『千葉県大百科事典』で与世里さんの更に詳しい経歴を発見しました。『千葉県立中央博物館10年のあゆみ』の中で大口寄贈一覧の項目の最初に与世里さんの名を発見。
 国会図書館のホームページのテーマ別調べ方案内という項目を発見しました。科学技術という項目の中に植物の学名を調べるためのインターネット上の情報源というのがありました。
 いくつかのホームページでサクラオグルマを検索したのですが、「BGPlants和名ー学名インデックス(Ylist)植物名検索」の検索でサクラオグルマといれたらInula x Yosezatoana Makino,nom.nud とでてました。

[推薦理由]
 与世里さんについては、よくわからなかった。えりっぷさんの努力に感謝します。




【候補7】 森銑三他編『随筆百花苑』第十三巻(1979年11月 中央公論社)

 ホームページ掲載日 2007年6月20日
 情報提供者  佐賀のMさん 

 森銑三他編『随筆百花苑』第十三巻(1979年11月 中央公論社)に幕末の佐賀藩士牟田文之助高惇の全国武者修行の旅日記が収録されています。 ここに、安政元年四月に佐倉を通過した記録があります。佐倉城下新町の油屋に泊まり、佐倉藩文武方役人の浅井仙之助の斡旋で藩士ら四十人と稽古をし、宿に戻ってから、蘭医佐藤泰然が藩主の乗馬に去勢手術をしたという噂話を聞いていました。

[推薦理由]
 佐倉本は、佐倉関連だけで調べていると漏れ落ちがあるということを教えてくれた本である。昨年の「堀田正睦暗殺計画の本」など、全国には、まだ埋もれている佐倉本があるのではないかと思う。
 佐倉藩には幕末、全国から他流試合に訪れる人を泊めるための宿屋「油屋」があった。この宿帳には、佐倉を訪れた藩士の名前が記されている。
 『佐倉市史』巻2には、油屋の宿帳「諸藩文武脩行者姓名録」が掲載されている(1474頁)。記入は嘉永3年7月から明治3年10月まで、780余名が記されている。
 この「諸藩文武脩行者姓名録」に牟田文之助の名前があった。牟田文之助の旅日記と、宿帳の名前が一致した。 




【候補8】 『千葉大学附属図書館亥鼻分館 古医書コレクション目録』(2007年3月 千葉大学附属図書館亥鼻分館)

 ホームページ掲載日 2007年6月20日
 情報提供者  亀田 

 コレクションの経緯によれば、その起源は千葉医科大学の伊東弥恵治眼科学教授が大正末年に眼科を中心とする東洋医学、とりわけ江戸時代の 中国眼科の古書に関心を持たれ、その収集に乗り出されたことにある。
 コレクションには、佐倉順天堂にあった洋書、古医書400冊も収められている。この本は「順天堂佐藤本」と分類されているため、本を拾えば 佐倉順天堂にあった蔵書の一端がわかるだろう。
 カラー図には「ポンペが松本良順に与えたサイン入り眼科書」がある。二人のサインがあることから、二人の信頼関係がわかる。
 かわったところでは、森鴎外『陸軍一等軍医森林太郎普国禁軍歩兵第二聯隊・隊務日記』一冊(明治21年 陸軍々医学会)がある。解説によれば、 「森林太郎がプロシア(現ドイツ)国へ軍医として留学した折の現地部隊で勤務実習の様子を記したもので明治21年から7月2日までのことが書かれ後半の 付録として独文の資料が入っている。」。本書は非売品であるが、佐倉順天堂にあった。
 このように、各医書には平易な解説文がつけられているのでわかりやすい。

[推薦理由]
 佐倉順天堂を語る上で、貴重なコレクションである。そのコレクションが目録として整理され、日の目をみたことが大きい。  




【候補9】 『千古不易 〜東京鎮台佐倉営所病院のあゆみ〜』(2007年4月 東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会)

 ホームページ掲載日 2007年6月20日
 情報提供者  亀田 

 『千古不易 〜東京鎮台佐倉営所病院のあゆみ〜』(2007年4月 東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会)
 2007年4月、国立歴史民俗博物館がある佐倉城址公園の一角に、「明治 大正 昭和 平成の四世に亘る佐倉射醫のこころ 茲に遺す 仁の心を腎に」という碑が建立された。
 佐倉は明治6年に軍隊の営所が置かれるところとなり、翌年、東京鎮台佐倉営所病院が創設された。以来、病院の名称は何度か変わったが地域医療に貢献をしてきた。2004年、聖隷佐倉市民病院として経営移譲される。
 この間の変遷を綴った記念誌で、佐倉衛戍病院から陸軍病院時代の話が詳しい。

[推薦理由]
 連隊の陰で埋もれていた、連隊に付随していた病院の歴史を、これまでの資料を通して紹介している。




【候補10】 白石良夫『幕末インテリジェンス 江戸留守居役日記を読む』(2007年10月1日 438円 新潮社)

 ホームページ掲載日 2007年6月20日
 情報提供者  亀田 

 幕末、佐倉藩士であった依田学海は江戸留守居役に抜擢されます。
 江戸留守居役とは、幕府や他藩の情報を調査することを職務とし、藩の方向を左右するような重職でありました。 佐倉藩は徳川譜代藩としての位置付けでしたが、そのことが維新時、幕府方につくか、官軍方につくかの決断で苦悩するところとなります。佐倉藩の苦悩は、依田学海の 苦悩でもありました。幕末から維新にかけての佐倉藩の動きが手に取るようにわかります。
 本書は、新書版『最後の江戸留守居役』を改題したものですが、文庫版となって読みやすくなっています。  白石氏は、学海が記した日記を解読した一人で、その記録は『学海日録』(岩波書店)として世に紹介されていますので、ご存知の方もおられることと思います。

  [推薦理由]
 とにかく、佐倉の幕末を語る上で貴重な本である。




【候補11】 中村福司『桜ヶ池宮神社考』(昭和53年9月20日発行 桜ヶ池池宮神社)

 ホームページ掲載日 2007年11月10日
 情報提供者  御前崎市佐倉のMさん 

 佐倉に関する出版物を収集しているとのこと。私の住むところは冒頭のとおり、「佐倉」といいます。
 当地には、興味を覚える1冊の本があります。中村福司氏の著書『桜ヶ池宮神社考』(昭和53年9月20日発行 桜ヶ池池宮神社)。
 当神社は私たち「佐倉」に住む住民の氏神様です。一地区の氏神とはいえ全国に信者がいるということが、この本に書かれています。
 その実証でもありませんが、私が子供のころには秋の彼岸中日に挙行される「納櫃祭」に観光バスが100台近く集まっていました
 このたびお便りしましたのは、この本に「敏達天皇の3人の皇子が、3兄弟を伴って都を出、長兄が現在の岩手県大船渡市へ、中兄が千葉県佐倉市へ、弟が静岡県御前崎市へと住み着き、 いずれにも「佐倉」という地名ある」という伝承が記載されています。
 伝承を確かめるため明治21年に当時の池宮神社宮司が、岩手県の当時の「気仙郡役所」に照会状を出しており、その返答に「佐倉」の地に子孫らしき人を発見したとの 書簡が送られてきたとの記録があるとのことです。
 同様に千葉県にも照会したところ、こちらは不明だったようです。
 いずれの地にも「佐倉」の地名と「桜ヶ池」という池と「天王社」が祭られているとのことですが。

[推薦理由]
 当佐倉以外の佐倉本資料。私は、これまでこのような本は想定していなかった。もっとも、考えてみれば日本の各地に佐倉という地名があるのだから、 このような本が出現するのは当然であるが。
 佐倉にまつわる伝承については、当佐倉に伝わっていないので判断は保留させていただきたいが(もう少し検討したい)、 ともかく、新しい佐倉本のジャンル(?)として推薦する。





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