立花屋薫(本名は渡邊輝之助)


脚本家

                        【2009年2月10日 新設】 


 2月15日
 節の介さんよりメールあり
 渡辺輝之助の情報です。 背表紙:『雨山遺稿』法学士 渡辺輝之助
 内表紙: 渡辺輝之助著  『雨山遺彙』  法律新聞社刊
 奥付: (明治四十三年五月発行 編輯兼発行人 渡辺てる子 東京都牛込区若宮町十一番地  発行所 法律新聞社)
 巻頭の渡辺輝之助の肖像写真の 次のページに正倫の署名のある句が 掲載されています。
 序文は、宮島五丈原が書いていて、 雨山未亡人の編輯の労を称えています。
 本文は、時論と漫録から成っており、 時論では、主に明治36年以降の司法分野に関する意見、主張が 収録され、慢録では主に明治39年以降の旅行や日々のエピソードを 記した文が収録されています。

 東京から千葉まで出張したことを記したものもありますが 佐倉のことについて言及した記述は見つかりませんでした。
 また、生立ち、年表や家系のことを説明するページは 有りません。

 2月3日
 節の介さんからメールあり
 渡辺輝之助についての追加情報です。
 『日評選書 新編 史談裁判 第1巻』森長英三郎(日本評論社 1984年6月)
小説「都会」発禁事件についての記述の中で、
P145-146
・・・東京地裁における公判は、同年二月二七日にあった。・・・弁護人は渡辺輝之助(雨山)、 宮島次郎(五丈原)、平山修(露花)の三名である。渡辺は明治三八年大審院判事から弁護士に 転じた人であって、文章をよくし、法律家の文人といわれたが、明治四二年に死亡し、 弁護士として名をなすにはいたらなかった。死後「雨山遺稿」(明治四三年刊)がでている。

P147
渡辺弁護人は、・・・・・といった弁論で無罪を主張した。

(節の介の注:上記公判は明治四一年のこと)

『明治の文壇の雄 尾崎紅葉』岡 保生(新典社 昭和59年12月)
P92
・・・印刷非売本の『我楽多文庫』はここで終わったが、この間、 社員はかなり増加した。立花屋薫(渡辺輝之助)、喜多川麻渓、香夢楼緑らが それである。

 節の介の注:『我楽多文庫』第一六号は明治二十一年二月発刊で、いわゆる印刷非売本の 最終号である。(同書P91)
・紅葉はこの当時、高等中学の二年在学中だった(同書P92)
・社員とは硯友社のメンバーのこと
・輝之助は明治21年7月に、東京帝国大学を卒業(文庫掲載済み)

 2010年1月23日
 節の介さんから情報メールあり
 渡辺輝之助についての情報です。
『学海日録 第八巻』学海日録研究会(1991年1月 岩波書店) P291の昭和24年9月6日に   ・・・渡辺輝之助来る。充の男にして、今秋田県の判事たり。劇場を 好みて、よく談じき。・・・ と書かれています。

 文庫の『堀田正睦公開国偉績』のページに、堀田家藩史編さん依嘱委員の 一人として、渡辺充の名前が出ていますね。 「充の男」は、充の息子という意味でしょうか。

〈返信〉
 ありがとうございます。また、佐倉ゆかりの人をたどる一本の糸が出てきましたね。 「充の男」は、充の息子と理解しておきましょう。どなたか情報をください。

 2009年2月15日
 節の介さんからメールあり
 渡辺輝之助についての情報です。近代デジタルライブラリーで閲覧したところ、次の2冊が見つかりました。
(1)
エスクバック著、神山亨太郎、渡辺輝之助訳『法学通論(威氏)』(牧野書房,明22年8月)

(2)
『東京帝国大学卒業生氏名録 』( 東京帝国大学編 、大正15年)
 本書に、法律学科(仏蘭西部) 明治21年7月卒業に、「渡邊輝之助 東京」の記載があります。
 ただし、本書が発行の時点で、死亡者の印が付いています。

 2月13日
 Mさんから立花屋薫についてのメールあり
 筑摩書房の『明治文学全集98』収録の「硯友社文学運動の追憶」に註はありませんでした。
 硯友社の面々の尾崎紅葉、石橋思案、山田美妙斎、丸岡九華などはいずれも大学予備門に通っていました。渡辺輝之助は法学士とありますから、帝国大学の卒業名簿を調べる方法は如何でしょうか。
 佐大図書館に『帝国大学出身人名辞典』はありましたが、残念ながら研究室貸出だから利用できません。
 講談社の六巻本事典である『日本近代文学大事典』を当たってみましたが、やはり立花屋薫の名前はありませんでした。

 2月4日
 Mさんからメールあり
 先日、館主さんが佐倉出身の立花屋薫という人物について取り上げていましたが、少し資料がありました。
 丁度今借り出している『日本近代文学の書誌 明治編』(有精堂)には「『我楽多文庫』活字非売本目録」も収録されていました。
 今朝その目録を点検していたら、「我楽多文庫第十五号」(明治20年12月刊)に、「立花家かほる」作の「吹返浮世秋風 五幕 序幕上野公園三宜亭場」があり、 「我楽多文庫第十六号」(明治21年2月刊)に、「立花屋薫」作の「吹返浮世秋風 二幕目」がありました。
 「我楽多文庫」はこの第十六号で終刊となり、「文庫」と改題して続刊されます。果たして立花屋薫の「吹返浮世秋風(ふきかえしうきよのあきかぜ)」は「文庫」で完結したのでしょうか。
 「我楽多文庫」の復刻版は出ているようですが、残念ながら佐賀県の図書館に所蔵はありません。

 本日、市立図書館に行った時『新日本古典文学大系 明治編21 硯友社文学集』(岩波書店)を見つけましたので、参考に借りてきました。
 巻頭に丸岡九華の「硯友社文学運動の追憶」があり、それを読んでいたら、立花屋薫言及を見つけました。
 「本号新入社員に立花屋薫(渡辺輝之助)あり」とありました。本号は第十五号のことです。しかしこの註には「生没年不詳 法学士」だけしかありませんでした。

 その先を読み進んでいたら、依田百川の硯友社訪問の記事がありました。例の石橋思案のかしう玉の宙乗り場面です。
 この事は以前メールしましたので、探したら去年十一月二十四日に筑摩書房の『明治文学全集98』収録の「硯友社文学運動の追憶」の読後感で書いていました。
 筑摩版『明治文学全集』の註がどうなっているのか気になりますが、恐らくこちらも不詳の可能性が大でしょう。
 文学研究でも歴史研究でも同じですが所詮大物主義の研究からになりますから、立花屋薫調査は容易ではないと思われます。裏を返せば大物達にはそれだけ資料があるということでしょうか。


 2009年1月27日
 『日本近代文学大系 第60巻 近代文学回想集』(1973年2月 角川書店)に収められている江見水陰の「自己中心明治文壇史(抄)」に、
 「硯友社中には『我楽多文庫』時代に立花屋薫(故法学士、弁護士、渡邊輝之助―佐倉の人)といふ脚本家がゐて二三の戯曲を発表して居り、 又『文庫』に成ってからも、漁山人(医学士多田寛)が有って『積雪節松枝』を発表してゐる。この二先輩が在るにも関わらず、尾崎が 自分を硯友座の立作者に抜擢したに就ては感激せずにはゐられなかった。」(243P)とあります。
 また新しい佐倉の人、発見です。立花屋薫、本名は渡邊輝之助というのでしょう。情報をお待ちしています。






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