為永春江


佐倉と何か関係があるのではないかと調べている人物です。情報がありましたら、お知らせください。

                        【2007年4月1日 新設】 


 2010年2月2日
 為永春江についての情報です
 『明治開化期文学の研究』興津 要(桜楓社 昭和四十三年一月)
 P161
・・・急激に戯作界の主導権をにぎるにいたったのが、高畠監泉とその門下の、 いわゆる柳亭派だった。・・・

 P162
・・・士族と肩書きする監泉と知識層から成る柳亭派(注2)にふさわしく、・・・

 P166
  注2 門下としては、・・・、門下ではないが、編集を手つだった知久況堂(為永春江・旧幕臣)、・・・

 『明治大正言論資料20 明治新聞残滓関係者略伝』宮武外骨・西田長寿 (みすず書房 1985年11月)
 P146
 知久況堂 ちくきょうどう 文化八年生、明治二〇年一二月二六日歿。七七歳。 (一八一一〜一八八七)戯作者。為永春江と同一人。一説に為永春江の本名と 称えられる。
 初代為永春江の高弟。この人と『芳譚雑誌』との関係は初めから あったと想像されるが、その名の初めて誌上に現われるのは、明治一一年八月二六日 第一二号からで、そのとき以後暫くは「投書」欄に、同一一年一〇月一一日第二一号 からは寄稿家(もしくは同人的な位置で)として、続き物を書いている。
 同一二年四月一一日第五六号からは、編輯兼印刷あるいは編輯印刷と署名、明治一五年 六月二六日第二八四号まで続き、次号第二八五号から編輯長を門人三品長三郎 (藺渓)にゆずった。その間は同誌の編輯の中心となり、その後も同誌の後見的 地位にあったようである。
 その間、『有喜世新聞』に明治一三年一〇月二三日第八三六号から同一四年七月三一日第一〇六三号まで主幹であった。明治一九年 四月前後は『改進新聞』に在社した。


 2009年1月17日
 節の介さんからメールあり
 為永春江が出ています。
 土屋礼子『大衆紙の源流 明治期小新聞の研究』(2002年12月 世界思想社)

P119 「第五章 初期小新聞にみる投書とコミュニケーション 3 投書者の社会階層 前節で検討した投書者のうち、本名、性別、生没年、出身地、出身階層、 職業などかなりの部分の履歴が明らかになった人々五十九名についてその投書時の 年齢、性別、出身地、職業等を分析した。表5-3はこの五十九名の投書掲載件数と 略歴を簡単な一覧表にしたものである。」

(節の介の注:表5-3「小新聞の投書者の主な履歴」から春江の行を以下に抜粋しま す)
整理番号:5、代表的な筆名::狂文亭春江、本名または通称:為永春江、 『読売』投書掲載件数:3、『東京絵入』投書掲載件数:27、『仮名読』投書掲載件 数:76、 投書掲載件数計:106、出身地:江戸(推定)、出身階層:不明、初投書時の年齢: 65、 投書当時の職業:戯作者、新聞雑誌との関係:12年4月〜

P187 「第八章 政党系小新聞にみる明治十年代後半における小新聞の変貌 3 編集陣にみる大新聞と小新聞の交流 (略) 『絵入朝野』は(・・・略)明治十六年末清水義崇(柳塘)が加わり、これを 野崎左文や杉山孝次郎(琴通舎康楽)、為永春江など小新聞でおなじみの 仲間が助筆する布陣であったが、(略)」

P193 「自由党系の小新聞が華やかな政治小説を繰り広げたのに対し、『絵入朝野』は相変わ らず 為永春江、野崎左文、柳亭種彦などの戯作を常時二本連載し続けた。」


 12月29日
 節の介さんよりメールあり
 永井荷風の作品中に為永春江の名前が出ていました。また、その作品の注解において為永春江のことが記載されています。
(1)『日本の文学19 永井荷風(二)』(1965年 中央公論社)
  P152 ?(さんずいに墨)東綺譚 の文中
 「相変わらず何もございません。お目にかけるようなものは。 そうそうたしか芳譚雑誌がありました。揃っちゃおりませんが。」 「為永春江の雑誌だろう。」

 P484 注解の中
 為永春江 (1813〜89) 幕末・明治の人情本作家。初代為永春水の 高弟。明治以降は「芳譚雑誌」「吾妻新聞」に戯作の筆を執った。都々逸の 選者もしたという。著書に「六玉川」「花美止里」など。

(2)永井荷風『?東綺譚・すみだ川』(1985年 ほるぷ出版)
 P8 ?東綺譚 の文中
 「相変わらず何も御在ません。お目にかけるようなものは。 たしか芳譚雑誌がありました。揃っちゃ居りませんが。」 「為永春江の雑誌だろう。」

 P274 注の中
 為永春江 (一八一三〜八九) 幕末、明治の人情本作家。初代為永春水の 門下。『芳譚雑誌』『吾妻新聞』などに戯作を発表、また都々逸の 選者などをした。

 編集部の注記(抜粋)
 なお、本文は『?東綺譚』(昭和十二年四月発行、鳥有堂・私家版)、(中略)を 底本とし、各版を参照して明らかな誤植とみなされるもののみ改めた。

 <返信>
 ありがとうございました。


 12月28日
 えりっぷさんからメールあり
 本文を再度確認しましたが「喜蝶」とあります。
 ついでながら、同書の13P「芳譚雑誌」のところにある文にも春江がでてましたので、書き足します。
 「『芳譚雑誌』は携帯薬『宝丹』の店主九代目守田治兵衛の出資によって明治十一年七月に創刊、発行所は愛善社(日本橋下槙町11のち京橋区銀座2の12)と称し、 栗田松三郎、知久況堂(為永春江)、三品長三郎(藺渓)、塚原房吉、高橋俊三郎などが責任者の位置を交替した。」この雑誌は明治十七年まで続けられたようです。
 春江は戯作者というだけでなく編集にも携わっていた人なのだとわかってきたりでちょっとうれしかったです。

 <返信>
 ありがとうございました。そうすると、「喜蝶」と「喜蝶女」の二通りが書かれているということになりますね。
 為永喜蝶が佐倉に住んでいたかどうかはわかりませんが、気になるところです。でも、そのうちに新しいことがわかってくるでしょうから、ゆっくりやっていきましょう。


 12月27日
 えりっぷさんからメールあり
 本日で佐倉市の図書館は休館になってしまいました。1月まで調べ物もできません。今年最後のメールです。
 色々あるうち1つです。杉本邦子『明治の文芸雑誌』(1999年 明治書院)
 明治の色々な雑誌の内容が書かれています。
 11Pの「魯文珍報」の下段に「また為永春江が次女喜蝶の作品を補綴して発表した『春窓娘学校』(2〜31号。10号より春江一人の署名になる。)」は 「孝女烈婦の実伝』を人情的に扱ったもので、雑誌連載の鼻祖として注目すべきである」とありました。
 佐倉の名が見つけられず残念です。
 皆様、良いお年を。またメールさせてください。

 〈返信〉
 今年は休みが長いので、ゆっくり読書をしましょう。ところで、為永春江の次女喜蝶は「喜蝶女」ではありませんか。一度、確かめてください。
 えりっぷさんも、良い年をお迎えください。


 12月25日
 えりっぷさんから、為永春江情報
 謎を解明するつもりが、逆になってしまったようです。
 『新編日本古典文学全集80』(2000年 小学館刊)洒落本滑稽本人情本の582P 春告鳥巻之十四の終わりに、狂訓亭門人為永春暁校合、為永春江補助とありました。
 春江の説明に「春水の門弟。飯田町坂に居住し、『春暁八幡佳年』『伊呂波文庫』『春色籬の梅』『春色恋志良波』『以登家奈幾』『娜真都翳喜』『春色伝家の花』など、 多数の春水人情本に校合者として名を連ねる。

 単独作としては「六玉川」(天保11年ー1840年刊)がある。明治に入ってからは『芳譚雑誌』などで活躍。明治二十年没。七十七歳。」と書かれてました。
 没年がまた違ってます。ちなみに校注は前田愛さんになっています。

   〈返信〉
 ありがとうございました。


 12月22日
 えりっぷさんからメールあり
 昨日の書きもれです。生没年に2つ情報があるということに関して(Mさん情報)、新訂増補人物レファレンス事典、明治大正昭和(戦前編)2000年刊日外アソシエーツによりますと 「文化10年(1813)年〜明治22年(1889)年」とありました。
 ただし、下に「近文(生 1817年 没 1896年」とあります。近文とは昨日引用しました「日本近代文学大事典」のことです。

 〈返信〉
 Mさんが確認してくれた没年は、トップページ右欄上段にありますので、ご覧ください。
 2000年刊、日外アソシエーツも没年を明治22年としましたが、明治29年説も紹介しているというところでしょうか。


   12月21日
 えりぷさんからメールあり
 為永春江の話題大変興味をもちました。すでに知られていることもあるかと思いましたが自分で調べたことをとりあえずご報告しますね。
 ネット上の情報は同じようですが、古本屋のサイトで2冊出版本が載っていました。「姫路梅雨の松風」(明治18年)「対の花籠秋曙」(明治13年)です。
 図書館所蔵の「日本近代文学大事典」第2巻(講談社昭和53年刊)を見たところ興津要さんの書いた項目がありました。
 「為永春江(1817〜1896)戯作者。本名知久況堂。別号狂文亭。初代為永春水門下としては、二世春水(染崎延房)よりも先輩で、 幕末には「いろは文庫」三編、「春色初若那」初、二編などの人情本を執筆し明治に入っては、「仮名読」「東京絵入」などの新聞に随筆を、「魯文珍報」「芳譚雑誌」などの戯作雑誌に人情本調の小説を掲載したが、 二流の存在として終わった」。です。

 気になったのは、「江戸東京学事典」三省堂1988年刊の都市文化人情本の732P二段目「春水はこのあと、『春色辰巳園』、『春色英対暖語』、『春色梅美婦禰』にいたる一連の梅暦もの、 また『春告鳥』、『春色恋志良並み』などの作品を書いた。これらは、春水におおくの門人が加わって合作したものがおおく、一連の創作工房をつくっていた点でもあたらしい作者の一面をもっていた」 のところです。春江も春水の作品にかかわっていたのではと。
 以上。とりあえず途中経過です。

 〈返信〉
 ありがとうございました。お礼のメールを入れましたが配信不能と出てしまいます。返信が着かなかったら、そのようなことと理解してください。


 12月19日
 節の介さんからメールあり
 為永春江について、生噛りの2次情報です。参考までに連絡します。
 一橋大学機関リポジトリ 土屋礼子「『仮名読新聞』投書欄の詩歌と作者たち」という論文の中に、4人の子どもも含めて、投書一家だったと記載されています。   こちら
 「狂文亭為永春江は、初代為永春水の高弟として有名な戯作者であり、その子供為永里遊女、為永喜喋女、為永美知女、為永柳江も常連グループで、為永一家として 投書欄に筆を振っている。」とあります(P268)。

 〈返信〉
 ありがとうございました。子どものだれかは佐倉に住んでいたのでしょうかね。また、新しい課題が出てきました。


 12月11日
 Mさんから為永春江についての情報あり
 角川書店の『日本近代文学大系60』の「近代文学回想集」を借りていました。野崎左文の『私の見た明治文壇』の注釈欄に、為永春江の項がありました。
 岡保生の注釈の「本名知久況堂」の姓の部分に「ともひさ」のルビがありました。しかし、本文部分の「狂文亭春江(知久況堂)」には「ちくきやうだう」のルビがありました。
 同じ本の中に知久姓の読み方として「ちく」と「ともひさ」の二通りが出てきました。
 東洋文庫の『私の見た明治文壇』を再度確認しましたら、野崎左文は為永春江の没年を「明治年間に於ける戯作者」では「明治二十九年没 年七十九」と書き、 亦「明治年間に於ける著述家の面影」には「明治二十年十二月二十日没 年七十九」と書いていました。尚、東洋文庫の『私の見た明治文壇』には知久況堂にルビは付いていません。

 〈返信〉
 ようやく本名がわかりました。
 どなたか、知久況堂を知っていますか。


 5月23日 
 為永春江メモ
 1、興津要『新聞雑誌発生事情』(1983年9月 角川書店)「明治12年1月4日の『東京絵入新聞』付録に、為永春江が、『絵入の盛大、諸社に後れぬ前田氏が、 世に愛嬌ある筆力に、花の色香を染崎氏・・・』と書いたり」(86頁)
 2、興津要『明治新聞事始め 〔文明開化〕のジャーナリズム』(1997年3月 大修館書店)「投稿によって知られてくると、そのひとたちは、各新聞社から原稿執筆を依頼されるようになり、 その〈寄書〉が読者にも歓迎される読み物になっていった。(略)そのなかには、為永春江や柳水種清のように、幕末の戯作者の復活した顔もあった。」(65頁)
 「為永春江は、初代春水門下としては、二世春水を襲名した染崎延房よりも先輩であったし、(略)いずれも明治維新の混乱期に文筆の世界から離れていたひとたちだった。」(66頁)


   5月17日 
 為永春江は佐倉とかかわりのある人物で、明治初期に戯作者として名が知られていたこともわかってきた。
 ただこれまでの佐倉の資料では為永春江という名前が見当たらない。為永春水の弟子としてのペンネームであろう。本名が知りたい。それと、佐倉のどこで生まれ(佐倉藩士であれば、江戸かも知れぬ)、 晩年は佐倉のどこに住んだのだろうか。
 情報をお待ちしています。


 5月16日 
 小池藤五郎著『愛書家のつぶやき』(1961年 桃源社)を古書店から入手。さっそく、為永春江が出ていると教えていただいた「裏表の見返しに各種番付表が意匠として載っていました。」を見る。
 ところが、意匠として掲載されているので文字が小さく、薄く(灰色)、加えて番付表が逆さまに掲載されていたりして読みづらいこと甚だしいレイアウトになっています。 このような見返しまで目を通したMさんに感服しました。


 3月30日 
 Mさんからメールあり
 『梅雨の松風』が未見の文献だったとは意外でしたが、何よりでした。最近は各種データベースが充実して来ていますので、本当に有り難いです。
 ところで、そのデータベースにも関係しますが、為永春江の生年月日と死亡年月日は判明しているのでしょうか。昨日、狙いを定めて、国立国会図書館のデジタルアーカイブから、関根只誠著『名人忌辰録』を閲覧しました。すると、「為永春江 明治二十年十二月廿日歿す」という一行だけの情報を見つけました。(『名人忌辰録』第1冊、43/51)
 ネット情報では、「私立PDD図書館」に、生死亡年を文化十四年と明治二十九年としてありました。『名人忌辰録』の発行は明治二十七年八月十五日ですから、まだ死んでいない人の死亡日を出す訳がありません。それで本日市立図書館で調べてきました。
 どうやら「私立PDD図書館」の情報源は『日本近代文学大事典』(講談社)であるようです。「文化14年・?〜明治29年・?」とありました。為永春江の項目は興津要の執筆でした。亦、例の野崎左文著『私の見た明治文壇1』(平凡社)の「明治初期に於ける戯作者」に、「為永春江 知久氏?明治廿九年歿、年七十九」と出ていました。嘗ては明治二十九年死亡説が広まっていたようです。
 ところで、比較的新しい人名辞典を繙きましたら、『日本人名大辞典』(講談社・2001年刊)に、文化10年の生年で、明治22年12月26日死去となっていました(1813−89)。これは、関根只誠の『名人忌辰録』記載の死亡日とも違っています。この項の執筆者は分かりませんが、この日付の典拠は何でしょうか。
 二つの死亡日が出てきましたから、もし確認するとしたら、当時の新聞から死亡記事を見つけるしかないと思います。為永春江が記者であった「絵入朝野新聞」や執筆していたという「東京絵入新聞」あたりはどうでしょうか。忘れ去られた作家であれば、死亡記事もない可能性があります。当地の公立図書館レベルでは復刻版やマイクロ版を含めて新聞資料が限られています。
 最終的には、国立国会図書館へ地元図書館を通じてレファレンスして貰う方法がありますが、地元の人からのレファレンスが頼み易いでしょうか。
 もし館主様の調査で既に判かっているのなら、御示教下さい。とまれ、何か出てきたら良いですね。館主様の為永春江研究の成功を冀念します。

 〈返信〉
 ありがとうございました。そうですね、このように調べればよかったんですね。私の調査不足でした。
 このところホームページの更新に忙しく、調べる作業を怠っていました。為永春江についての情報は持っていません。これから調べることにします。


 2007年3月27日 
 Mさんからメールあり
 館主さまからメールを貰いまして、ネットで為永春江のことを調べていましたら、「国文学研究資料館」の近代書誌データベースに、『姫路美譚 梅雨の松風』がありました。すでに御承知とは思いますが、念の為に御報告します。
 この本の巻頭に「在佐倉 為永春江識」の署名がある序詞があります。文章を読めば佐倉は古里(舊里)に当たるようです。ということは彼も佐倉出身になりますか。このデータベース紹介の図書は明治十八年一月刊行の初版のようです。「出版免許年時 明治17年10月22日御届」とあります。
 国立国会図書館のデジタルライブラリーにもこの本の画像があります。明治十八年一月と明治十九年十二月の刊行本ですが、「国文学研究資料館」の近代書誌データベースの書影とは少し違っていました。
 ところで、先のメールにありました「明治17年ごろ息子の住む佐倉に移ったとあります」の典拠は何でしょうか。「戯作と投稿で有名な為永春江」の典拠は、野崎左文の「明治初期の新聞小説」辺りだと思います。これは、『私の見た明治文壇1』(平凡社)に収録されていました。と云うことは、為永春江の名前は出ていた筈です。すっかり見落としていました。

 〈返信〉
 ありがとうございます。知りませんでした。私が以前、お話した為永春江の出典は、興津要『仮名垣魯文』(有隣新書 平成5年)で、「戯作と投稿に有名な為永春江は、風塵を厭う心より、一時、東京を去て、折から子息の下総佐倉に奉職して居らるれば、其許に至り、静かに老を楽しむとて」とあります。
 私は、ここしか知りませんでしたので、為永春江と佐倉とはどのような関係かを調べていました。これで、佐倉とのつながりがわかりました。新発見情報です。これから為永春江という人物や作品などを調べていきますので、ご教示ください。




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