木村軍太郎〔文政10年(1827)〜文久2年(1862)〕 佐倉藩士で蘭学者。文政10年1月12日、江戸渋谷の佐倉藩邸に生まれる。嘉永2年(1849)杉田成卿の塾に入門。 嘉永3年、佐久間象山の塾に入門。 安政元年(1854)閏7月、藩に兵制改革の意見書を提出。8月、幕府の蕃所和解御用となる。同年冬、杉田成卿が「知能軒」という号を贈る。このころ江戸で蘭学塾を開く。 安政3年(1956)12月、蕃所調所の教授手伝となる。翌年11月、ハリスの国書を翻訳。 文久2年8月15日、病死。 情報がありましたら、お知らせください。 【2007年9月29日 新設】 2007年9月23日 浦安市のKさんからメールあり ご多忙中恐縮ですが、ご教示いただきたいのですが、佐倉藩士木村軍太郎の下田での松陰、金子氏との同宿の件ですが、 この逸話の出処となった文献について、お教えいただきたくよろしくお願いします。 <返信> 出典は吉田松陰の「回顧録」にあります。佐倉図書館にありますので、浦安市の図書館にもあるのではないでしょうか。図書館間で相互貸与ということもできます。図書館の検索を使うときには「吉田松陰 回顧録」で検索してください。 佐倉藩士の蘭学者木村軍太郎は、ペリーが2度目に来日した安政元年(1854)正月、藩命によりペリーの動向を探るように命じられます。 ペリーが帰国をするにあたって、軍太郎は海岸沿いに追いかけていきます。軍太郎のみならず多くの蘭学者もそうであったようです。 そして、下田までたどり着いたのです。下田には、そうした人々が泊る宿屋が指定されていました。吉田松陰も同行の金子重輔も下田を訪れていましたが、松蔭は周辺地を転々としていました。 松蔭が留守にしたある夜、軍太郎は重輔と日本の開国について激論を交わします。翌日、宿に戻った松蔭に重輔は訴えた、ということが記されています。 松蔭は軍太郎の知人であり、軍太郎のすばらしさを話して重輔を諭します。その後、軍太郎と松蔭は姉ヶ崎海岸で、いっしょにペリーの艦隊を探ることになります。 詳細は、村上一郎『蘭学者 木村軍太郎』(1967)を、ご覧ください。これも、図書館にあります。 トップページ |