藤本藤蔭・藤本真 情報がありましたら、お知らせください。 【2009年3月5日 新設】 3月12日 節の介さんから藤本藤陰に関する情報あり (1)『学海日録 第3巻』から、次のことが分かりました。 ・学海が佐倉に住んでいる期間に、藤本真が学海を数回訪れています。 明治4年11月11日、5年1月14日、6月15日 また、5年4月26日には、学海が藤本真の家を訪問して蔵書を見ています。 このことから、藤本真は、佐倉に住んでいたと判断できます。 ・学海が東京に転居した後の明治5年10月12日に、藤本真が学海を訪れており、 藤本真について、「今秋東京に来りて・・・」と記しています。 このことは、東京に転居したということであり、前述の佐倉在住者であったという 判断と整合しています。 ・5年11月27日には、藤本真を、学海が勤めている会議所の小使とした記述があります。 ・6年2月5日には、会議所が設けた東京養育院に藤本真が勤め、2月12日には副長になり、 2月14日には退職することを言いに来ています。 ・佐倉に住んでいた明治5年1月14日に、藤本銀二郎から草子の序を書くことを要請された記述があり、 1月17日に、藤本真のふみの序をつくったとし、14日のことを指しています。 このことは、藤本真は藤本銀二郎であると判断できます。 (2)『保受録』から次のことが分かりました(西暦は、節の介が付記) ・藤本銀次郎 弘化三午年十一月十九日 父段七病死(1846年) 安政五午年十月三日 当午拾六歳相成(1858年。逆算すると1842年生れ) 年齢としては学海よりも8歳若く、銀次郎=銀二郎=真=藤陰ということも 考えられます。 (3)『養育院六十年史』昭和8年3月発行 東京市養育院 編纂兼発行から 次のことが分かりました。 ・院関係人事異動 明治6年2月12日 舎長添役申付 月給拾五円 藤本眞吉 明治6年3月7日 副長廃止に付職務被免 藤本眞吉 このことから、藤本真は藤本眞吉であると判断できます。 〈返信〉 貴重な調査です。ありがとうございました。 2010年3月4日 節の介さんから佐倉本情報あり 藤本藤陰の情報です。 (1) 『西鶴名著集 上巻』明治36年7月発行 博文館において、 内表紙は藤本藤陰 校訂と表記されていて、 奥付には著者 藤本眞と表記されています。 (2) 『部落問題文芸・作品選集 第30巻』昭和51年4月発行 世界文庫 のP106−122に 「鋸びき」藤陰隠士が収録されています。 (3) 『部落問題文芸・作品選集 第50巻』昭和55年2月発行 世界文庫 のP5−153に 「落葉」藤陰隠士が収録されています。 (4) 『日本名勝地誌 第8編 南海道之部』1898年発行 博文館 野崎左文/藤本藤陰 著 あとがきに、第8編から担当することになったと藤陰が述べています。 〈返信〉 ありがとうございました。 3月12日 節の介さんからメールあり 藤本藤陰/藤本眞の情報です。 (1) 『小学簡易科読本字弁』藤本眞 金港堂 明21.11 (近代デジタルライブラリーで閲覧) (2) 『落葉』藤蔭隠士 金港堂 明24.12 (近代デジタルライブラリーで閲覧) (3) 『一葉全集 第四巻』筑摩書房 昭和二十九年三月初版 昭和三十五年七月 五版 P113 塵中日記 「二十三日(注:明治27年)根岸に藤陰君をたづぬ。・・・」 (4) 『続日本随筆大成4』吉川弘文館 昭和五十四年十二月 「酔迷餘録」中根香亭 P146 「・・・先つ頃藤本藤陰、話次下総の国某の村某の家にて、 数年前家を作りしとき、誤りて守宮を釘付けにしたるが、・・・」 (もう一息で、「佐倉」が読めそうですが、表記されていません) (5) 『都の花』の復刻版が出ています。(都立中央図書館蔵) 第39号から印刷人が藤本眞になっていました。 バックナンバーには、学海、藤陰、香亭の作品が多くあるようです。 中根淑(香亭)や樋口一葉を追いかけると藤陰の 情報がつかめるのかも知れませんね。 〈返信〉 たくさんの情報をいただきまして、ありがとうございます。これから楽しみですね。 3月8日 杉本邦子著『明治の文芸雑誌』(明治書院)ですが、読み進めていましたら『都の花』の説明文に藤本藤陰(蔭)情報がありました。 乃ち、三十九号(明治23.5)以降は、印刷人として「藤本真(藤陰)と交替する」とありました。『都の花』は金港社発行の雑誌で、編集人は香亭中根淑です。 杉本邦子は藤本真と藤本藤陰(蔭)を同一人物であると見做しています。この典拠を是非とも尋ねたい所です。 2009年2月21日 Mさんからメールあり 『学海日録』調べでわかった新情報を書いておきます。 パソコンの不調になる前に去年分の佐倉メールを読み返していたら、藤本真を去年八月に話題にしていました。 先日のメールで再度藤本藤蔭のことを話題にしましたばかりでしたので、或いは同じ人物なのではないかと思い付きましたので、『学海日録』で調べました。 明治三十年六月十日に「真、この頃、博文館の日本名勝誌というものを著はしぬ」とあります。調べたら、これは藤本藤蔭著『日本名勝地誌』のことでした。 亦明治二十一年三月七日の条に「中根淑の周旋によりて、金港堂の編輯局に入りて校合の役」になるとあります。 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに、明治二十一年十一月刊行の、藤本真著『小学簡易科読本字弁』(金港堂)がありました。 乃ち、『学海日録』の索引では、藤本真と藤本藤蔭は別項目になっていますが同一人物だと看做しても宜しいかと思います。 藤本真の『学海日録』初登場は明治四年でした。日録には同郷の佐倉の人とは書いていないが、就職の面倒を見ているところから判断しても、 藤本藤蔭こと藤本真は佐倉の人だと思われます。立花屋薫の佐倉人説同様確証が欲しい所です。 〈返信〉 また新しい人物が浮かび上がってきましたね。みなさんの情報をお待ちしています。 トップページ |