郷土資料・備忘録 「満開佐倉文庫だより」に情報提供された郷土資料で、2000年以前に刊行されたものの中から館主が備忘のために記録しておきたいものを抽出して掲載します。 2000年以後に刊行された郷土資料については、「郷土資料 著者一覧」に掲載してあります。こちらの資料は、情報を選択することなく掲載していきます。 【図書の紹介にあたって】 図書を紹介するにあたっては、著者、題名、発行年、出版社を記入するほか、佐倉が出てくる部分を一部引用しています。これは、題名だけでは図書の内容がわからないため、利用者が図書を選ぶにあたっての目安としていただきたいと考えたからです。 引用にあたっては、掲載した文章の誤字、脱字もあろうかと思うので、利用者は原著を読み、原著から引用をしていただきたいと考えています。 また、引用部分は文庫で判断したため、著者の納得いただける引用部分ではないかも知れませんが、なにとぞ趣旨をご理解いただき、ご容赦くださるようお願いいたします。 【2007年12月12日 新設】 【原始・古代】 千葉県立中央図書館編『千葉県地名変遷総覧』(1970年2月 河出書房) 古代東海道の駅の一つで、印旛地域にあったという鳥取駅の記述箇所 「延暦二十四年紀 印旛郡、鳥取ノ駅ヲ廃スト」(124頁)「延暦二十四年紀 鳥取ノ駅ヲ廃ス」(廃止理由の説明あり)(129頁) 明治二二年千葉県町村分合資料 神門(鳥取古駅名ナルガ、今詳ナラズ。・・・、大略、其位置ハ長隈郷ノ辺ト想像セラル。・・・)(134頁)(2007年3月13日 掲載) 澤瀉久孝『萬葉集注釋』巻第十四 この巻は東歌が載せられています。3529番の歌、等夜(とや)の野に兎窺はり(をさぎねらはり)をさをさも寝なへ子故に母は嘖はえ(ころはえ)、 訳は、「等夜の野で兎を窺っているのではないが、をさをさも、ろくに寝もしない子のために、お母さんにおこられて」、難解な歌です。略解に「又和名抄、下総印幡郡鳥矢郷有り、そこか」ともある、と書いてあり、萬葉集略解は江戸時代の国学者加藤千蔭(1735〜1808)の本です。 「等夜」は、地名か普通名詞か不明の言葉ですが、下総郡の地名という説は実は恥ずかしながら初見で、調べてみると結構小学館古典文学全集などには頭注に出ていました。 「鳥矢」とは佐倉市鏑木となるようです。佐倉の鏑木を舞台とした万葉歌があったとは驚きでした。この和名抄の地名の比定について、どなたか詳しい人はいらっしゃいませんか? 澤瀉久孝は「鳥矢」が、地名を表すか、または普通名詞で「鷹をあはせんとて柴などをさして隠れをるを田舎にて鳥やといふ、そを転じて獣とるためにするをもしかいへり、さるわざする所を即鳥屋の野といふなるべし」とする、 『萬葉考』賀茂真淵説も同じ本で紹介しています。一応、「鳥矢」説を紹介している、 加藤千蔭『萬葉集略解』、澤瀉久孝『萬葉集注釋』巻第十四と、小学館古典文学全集4『萬葉集』3は佐倉本になるのかなと思います。(2007年9月1日 掲載) 【中世】 【近世】 「協和私役」窪田子蔵収録『日本庶民生活史料集成』第4巻 探検・紀行・地誌・北辺篇(223-270頁)(高倉新一郎編 1969年6月 三一書房) 編集委員の解題の一部を抜粋します。安政3年・・・外国掛老中、下総佐倉藩主堀田備中守正篤は藩士窪田子蔵等三人を派し、子蔵等は六月二十三日函館を発して西海岸を北上して宗谷に到り、 樺太に渡ろうとしたが季節が後れ、断念してオホーツク海を東に出、北海道を一周して帰り、日記体の報告書『協和私役』を残した。(2007年3月22日 掲載) 森銑三他編『随筆百花苑』第十三巻(1979年11月 中央公論社) 幕末の佐賀藩士牟田文之助高惇の全国武者修行の旅日記が収録されています。 ここに、安政元年四月に佐倉を通過した記録があります。佐倉城下新町の油屋に泊まり、佐倉藩文武方役人の浅井仙之助の斡旋で藩士ら四十人と稽古をし、宿に戻ってから、 蘭医佐藤泰然が藩主の乗馬に去勢手術をしたという噂話を聞いていました。(2007年6月20日 掲載) 山口県 教育会編纂『吉田松陰全集 第十巻』(岩波書店) この巻収録の紀行日記の「東北遊日記」に、吉田松陰が小金原を通過していました。小金駅を過ぎて、広原漫漫の小金原を過ぎていました。残念ながら佐倉通過はありませんでしたが、 松陰の後を追った宮部鼎蔵は行徳・佐倉・下妻のコースを通って水戸で松陰に追い着いていました。(2007年10月15日 掲載) 今田洋三著『江戸の本屋さん 近代文化史の側面』(日本放送出版会) 江戸の本屋である須原屋茂兵衛の考察があり、四代須原屋茂兵衛の碑文の撰を佐倉の藩儒渋井太室が書いていました。(2007年10月15日 掲載) 清河八郎著『清河八郎遺著』(民友社) 天狗党騒動の探索行で佐倉にも偵察に出掛けていました。「佐倉の城下に至り、文武舎、油屋に息ひ、当藩の文学、続得蔵方に書状を贈り、 出会を乞ふ、病気の断りあり。」が「潜中始末」にあり、 漢文の「潜中紀略」には「至佐倉。浮評漸譟。店婦止我曰。君不可東行。若有不慮。悔之何益。」とあった。油屋が又登場しました。 総髪の清河八郎は旅の途中に天狗党に間違われていました。(2007年10月15日 掲載) 【近代】 塩谷和子著『明治十八年の旅は道連れ』(源流社・2001年刊) 会津猪苗代の連中が、伊勢参りの途中佐倉に一泊していました。「駿河屋又兵衛」殿に泊まっています。 旅費等については、成田から佐倉までの雨中三里を人力車で三十銭の賃金であり、駿河屋の宿賃は二十銭でした。(2007年8月5日 掲載) 【人物】 多田健次著『近世教育史料の研究』(玉川大学出版部) 西村茂樹も佐倉出身と出ていました。(2007年2月6日 掲載) 和歌森太郎著『酒・旅・相撲』(ゆまにて出版・1977年刊) 母親を佐倉出身と書いていました。(2007年2月6日 掲載) 『完全復刻 杉亨二自叙傳』(1918年刊行 2005年復刻 日本統計協会) 「江戸に着て、永田町の大村邸内村田の所に数日居つた、其内に先年長崎で上野に居た 手塚律蔵と云ふ人が余を世話しなければならぬ事情もあった、其人が丁度江戸に来て居るので尋ねて行った、手塚は其時分、堀田の屋敷に頼まれて往て居た、堀田の屋敷は 今の新富座の所だが、其所へ手塚が来てくれと云ふ事であったから行た、手塚は堀田の家来に蘭書を教えて居た、余は其所に飯を焚て居た、其頃西村茂樹だの木村軍太郎だ のと云ふ人が手塚の所へ稽古に来た。」(15頁) 年表によれば、その年は嘉永三年(1850)二月とある。(2007年6月6日 掲載) 【印旛沼】 千葉市史編纂委員会『天保期の印旛沼掘割普請』(1998年3月 千葉市) 印旛沼開鑿工事についての研究書です。(2007年3月13日 掲載) トップページ |